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上告趣意書補充書(4)

第1 憲法36条違反

「上告趣意書 第1点 第1 憲法36条違反」において、絞首刑は憲法36条に違反する残虐な刑罰であることを論じた。この点について補充する。

1 明治時代の官報・新聞記事調査結果の概要

弁護人らは明治時代の官報(1886年〈明治19年〉10月~1912年〈明治45年〉7月)を調査した。この時期の官報は死刑執行に関する情報を登載している。上記の期間の死刑執行の全てを官報が網羅しているとは限らないが、総計で1184人の死刑執行が記載されている。ただし、そのうちの1件は軍法会議による銃殺刑を誤って登載したと思われるので、正確には、1183人の死刑執行に関する情報を入手した。

次に、官報の情報を参考にしつつ、読売新聞、大阪朝日新聞、東京朝日新聞(「朝日」と略記)、自由灯、灯新聞、めさまし新聞、大阪日報、日本立憲政党新聞、郵便報知新聞、時事新報、東雲新聞、福岡日日新聞、東京横浜毎日新聞、毎日新聞(現在の同名の新聞とは無関係)、東京絵入新聞などの調査を行なった。その結果、現在までに死刑関連の記事(必ずしも死刑執行の記事ではない)約700件を収集し得た。これらにより、316人の死刑執行・死刑判決等の記事を得た。記事の量や内容は個々の死刑執行により大きく異なっており、単に死刑執行の事実を伝えるにとどまるものも多かった。詳細を伝えるもののうち、頭部離断を起こした例が1件(1883年7月6日執行の小野澤おとわ)、ロープが切れた例が2件(1882年12月21日執行の岡田福松、及び木無瀬礼助看守が論文中に記載する執行日・氏名不詳の者)、死刑囚がロープから外れた例が1件(1893年7月27日執行の長島高之助)存在した。死刑執行の詳細が新聞に記載されていること自体が必ずしも多くないこと、詳細が記載されていても、全ての事実が記載されているとは限らないことを考えれば、これらの数字は決して少ない数字とは言えない。つまり、絞首刑には「失敗」が一定の程度で起こり得るものと考えるのが妥当である。

中央フロリダ大学教授のロバート・M.ボーム(Robert M. Bohm)教授の「死の研究Ⅲ 米国における死刑の理論と実際への入門〈第3版〉(「DEATH QUEST Ⅲ An Introduction to the theory & practice of capital punishment in the United States」によると、1622年から2002年までの間に、米国で行なわれた合法的な絞首刑約16000件のうち少なくとも170件が失敗したとされる。新聞記事に表出した失敗の事例からしても、わが国でもこの程度の割合で絞首刑の「失敗」は起こり得ると考えられる。

2 明治時代の新聞記事の内容

(1)絞首刑の失敗事例

上記の「失敗」の事例のうち、岡田福松のものは、まだ引用していないので、ここで引用する。同人は、1882年(明治15年)12月21日に大阪中之島で絞首刑を執行された。出典は同年12月22日付の〈日本立憲政党新聞〉である。

兵庫県下菟原(うはら)郡高知村、平民・岡田福松(二九年)は、さきに強盗犯の廉(かど)に依り堺裁判所にて懲役終身の刑に処せられ服役中脱走し、その後諸所へ押入りて強盗をなせし上、昨年五月一九日、山中茂平方へ押入りし節、同人長女まさの声を立てしを怒り短刀を以って刺殺したる等の科に依り、昨日、中の島監獄分署内にて絞罪に処せられしが、処刑の際、如何なる機会ありしか絞縄は中途にて忽(たちま)ち切断し同人は礑(はた)と地に落ちて苦しみしを、掛官は直にこれを引揚げさせ絞縄を取替えて再び首を絞め終に死に至らしめしとぞ。

(2)死刑執行記事の内容

新聞等の死刑執行記事について72件104人の絞首刑の記事を現代語訳し、さらに要約したものを以下に示す。

岡崎新八 (不明) 男性
・ 茨城県下の農民一揆事件
・ 明治11年8月11日に茨城で死刑執行
・ 新八の他に小林彦衛門が絞首刑。首謀者の本橋次郎左衛門は斬首刑。明治14年12月31日までは斬首刑もあった。(読売/M11/08/27)
北川石松 (不明) 男性
・ 強盗。数十人の囚人と謀って放火して脱獄
・ 明治15年12月18日に中之島(大阪)で死刑執行
・ 大阪重罪裁判所で判決を受け、直ちに中之島監獄分署に送られてその日のうちに死刑執行。(日本立憲政党/M15/12/19)
岡田福松 (29) 男性
・ 強盗殺人
・ 明治15年12月21日に中之島 (大阪)で死刑執行
・ 処刑の時、どうしたことかロープが途中で切れ、福松はばったりと地面に落ちて苦しんだ。看守は直ちにこれを引き上げ、ロープを取替え、再び首を絞めてやっと死に至らしめた。(日本立憲政党/M15/12/22)
小野澤おとわ (37) 女性
・ 内縁の夫の母を絞め殺す。
・ 明治16年7月6日に市ヶ谷(東京)で死刑執行
・ 死刑の執行で、吊り下がった瞬間に首が半分ほどちぎれて血があたりにほとばしった。5分間ほどで絶命。(読売/M16/07/07他)
鈴木鍬次郎 (不明) 男性
・ 憎まれ者の高利貸夫婦を殺す。
・ 明治16年10月11日に名古屋(愛知)で死刑執行
・ 高利貸夫婦をあわれむ者はなく、鍬次郎が死刑に処せられると聞いて、有志2000人以上が名古屋重罪裁判所に助命嘆願を出す。2人が代表して上京。司法省にも嘆願書を提出したが、死刑は執行される。
(郵便報知/M16/10/16他)
日野丑太郎 (不明) 男性
・ 悪口を言った母娘を殺す。
・ 明治17年7月8日に福岡で死刑執行
・ 死後の解剖を願い出たため、福岡医学校で本日解剖の予定。
(福岡日日/M17/07/09)
松本豊次郎 (不明) 男性
・ 殺人
・ 明治17年10月28日に市ヶ谷(東京)で死刑執行
・ 刑法附則8条の規定で、裁判所、犯人自宅、犯行現場に死刑宣告書が掲示される。辞世「東路(あずまじ)の/名所古跡を/見つくして/是から先は/西の旅だち」。(郵便報知/M17/10/29他)
有馬正純 (34) 男性
・ 不明
・ 明治18年5月7日に中之島(大阪)で死刑執行
・ かねて覚悟していたようで、「目かくしに及ばない」と言った。しかし法の定めであるため白木綿で両眼をおおわれた。絞首台に乗った時、「しばらくお待ち下さい」と言って「再びと/帰らぬ空へ/旅立の/涙に袖を/絞りぬるかな」と辞世を詠み、「これにてよろし」と述べて処刑される。
(大阪朝日/M18/05/08)
松田克之 (30) 男性
・ 大久保利通暗殺で終身刑。赤井景韶と脱獄
・ 明治18年6月25日に市ヶ谷(東京)で死刑執行
・ 早期の死刑執行を願い出る。絞首台を登る時、目かくしをしているので、看守が横から「もう一段登れ」と言って静かに絞首台上に登り終る。ただちに首に縄がかけられ、体はつり下げられた。それと同時に鼻と口から鮮血が吹き出して、氏は30年5ヶ月を一期にとして刑場の鬼となった。所持品は現金64銭、堤灯1個、こよりで作った網。芸道熱心な尾上菊五郎が参観を申し出るが不許可。(自由灯/M18/06/26他)
赤井景韶 (25) 男性
・ 高田事件で服役。松田克之と脱獄
・ 明治18年7月27日に市ヶ谷(東京)で死刑執行
・ 死刑の参観およそ100人。「赤井景韶」と呼ばれて絞首台の下に来たが、看守に「目かくしは法律にない。できれば目かくしなしで死刑の執行を受けたい」と言うが、看守から規則であると言われて受け入れる。氏は絞首台に上った。参観者はしんとして咳払いひとつしない。死刑の執行後、10分過ぎに同氏は頭を左右に3度揺らした。その後5分で絶命。
(自由灯/M18/07/28他)
加藤民五郎 (不明) 男性
・ 高利貸2人を8人が殺害
・ 明治18年8月15日に神奈川で死刑執行
・ 民五郎の他に、夏苅広吉・関野伊右衛門・守谷滝蔵・小島直次郎・小林浅五郎・相原文次郎・大原儀三郎の8名が1日のうちに処刑。
(郵便報知/M18/08/16他)
宮下小平 (不明) 男性
・ 強盗殺人
・ 明治18年9月2日に市ヶ谷(東京)で死刑執行
・ 死刑執行当日に執行予定時刻9時と報道される。実際の執行は9時15分だった。(郵便報知/M18/09/03他)
森田友蔵 (不明) 男性
・ 殺人・強盗・強姦・脱獄など多数。共犯者は明治14年までに全て処刑
・ 明治19年2月15日に中之島(大阪)で死刑執行
・ 50歳位に見えるが、背が高く若者のような血色で、少しも怖れる様子はなく「死を惜しむ」という意味の一言を話して処刑される。
(大阪朝日/M19/02/16)
三浦文治 (不明) 男性
・ 加波山事件(自由民権運動の激化事件の1つ)
・ 明治19年10月2日に市ヶ谷(東京)で死刑執行
・ 70名余りが参観。7時45分に三浦文治が白紙で目隠しをされて仮りの監房を出て15歩程歩いて絞首台に登った。ガタンという音と共に吊り下げられ、18分間で死亡。次に小針重雄も同じく15分間で息絶え、最後に琴田岩松も14分で息が絶え、8時52分に全ての死刑執行が終わった。
(読売/M19/10/03他)
保田駒吉 (不明) 男性
・ 加波山事件。同日に、共犯の杉浦吉副と富松正安もそれぞれ栃木と千葉で処刑
・ 明治19年10月5日に山梨で死刑執行
・ 当日、死刑執行を言い渡された時、駒吉はにっこりとして微笑し、「時ならぬ/時に咲きたる/桜花/散るや桜の/花盛りかな」と辞世を遺し、刑の執行を受ける。死刑の参観は認められず。(灯/M19/10/06他)
岡村広吉 (不明) 男性
・ 強盗、窃盗で10数回服役。そのたびに脱獄。最後に殺人
・ 明治19年10月7日に中之島(大阪)で死刑執行
・ 大罪を犯すだけに心身もたくましく、死刑執行のために堀川監獄から刑場に移送する途中で粗暴なふるまいがあった。死刑執行後の死体も両目を見開いて歯をくいしばり口を閉じて手足を伸ばし大の字状になっていた。死を憤っている様子が明らかにあらわれていた。(大阪朝日/M19/10/08他)
上中元吉 (35) 男性
・ 強盗殺人
・ 明治19年12月28日に中之島(大阪)で死刑執行
・ 刑場でも少しもおびえた様子はなく、辞世の和歌を声に出して唱えて心静かに死に就いた。死後の解剖をして医師の参考にして欲しいとも願い出ていたので、同日中に監獄内で解剖も行なわれた。(大阪朝日/M19/12/29)
新垣亀 (不明) 男性
・ 殺人
・ 明治20年1月に死刑執行
・ 沖縄は琉球国玉尚氏の時代から死刑を行なわなかった。殺人などの重大犯罪でも八重山島に放流するにとどめ、どのようなことがあっても人命を断つことは無かったが、沖縄県初めての死刑執行。(大阪朝日/M20/03/20)
鎌田徳 (30) 男性
・ 国立第17銀行への強盗殺人
・ 明治20年5月19日に中之島(大阪)で死刑執行
・ 共犯者の奥山重義と村井正次郎は堀川監獄で首をつって自殺。鎌田は共犯の古野次郎と同日処刑。(大阪朝日/M20/05/20)
林幸一郎 (不明) 男性
・ 殺人
・ 明治20年5月21日に中之島(大阪)で死刑執行
・ 死刑執行の日、堀川監獄から刑場へ移送される時に兄弟と息子が面会に来たが、すでに出発の時間だったので許されなかった。しかし、幸一郎が看守に引かれて囚人馬車に乗る時に息子の顔を見ることができた。「おお、坊か。よう来てくれた。のう、決してこの父のように悪い事をせぬよう、立派に成人してくれよ」と涙ながらに述べた。囚人馬車に乗って刑場に着いて、死刑の執行を申し渡された。厚く今までの礼を言って絞首台に登った。(大阪朝日/M20/05/22)
清水定吉 (45) 男性
・ 日本初のピストル強盗殺人。窃盗多数
・ 明治20年9月7日に市ヶ谷(東京)で死刑執行
・ 絞首されて息を引き取るまで30分もかかったことは記録破り。
(日本死刑史/S58/08/20/663~664頁)
増原玉吉 (22) 男性
・ 殺人
・ 明治21年5月16日に堀川(大阪)で死刑執行
・ 刑の執行を受けるに先立って故郷の実母りの・弟六吉に送る一通の手紙を書く。「先立つ不幸の罪をただお許し下さい。また六吉は自分の死後、母に孝行尽くすよう、このことをよろしく頼む」。玉吉は持っていた30銭で寿司1箱、タイの切り身1切れ、ようかん1棹を買ってこれを現世の思い出に全部食べ尽し、看守らに礼を述べた後、静かに刑に就いた。
(大阪朝日/M21/05/17他)
幸寺治平 (37) 男性
・ 強盗殺人、放火
・ 明治21年6月16日に堀川(大阪)で死刑執行
・ 刑場に就く前に、瓜の奈良漬と白飯を乞い、これを茶漬にして食べた。辞世を3首。治平は染物商であった。「染物の原料の藍は立売堀5丁目田中清三郎方で買うように、同家は勉強してくれる商店で、大恩を受けた事もある。子供が成長したのちに必らず恩に報いてくれ」。(大阪朝日/M21/06/17)
吉松寿太郎 (不明) 男性
・ 強盗殺人
・ 明治22年4月15日に堀川(大阪)で死刑執行
・ 刑場で看守に礼を述べて数十通の遺書を書いた。「ただ今、長逝の途に就きます。生前は無量の御厚情をこうむり、万々ありがたく存じ奉っております。なにとぞ、お幸せに、何事もなくお過ごしを。また、ますます御努力されますようにお願いいたします。高知県平民 吉松寿太郎」筆跡は普段と変わりなく、立派なものであった。(東雲/M22/04/16他)
津久井すぎ (41) 女性
・ 離婚に関して実母と争って殺害
・ 明治24年8月22日に市ヶ谷(東京)で死刑執行
・ 死刑を言い渡されたすぎは、手すりにすがりついて看守らに「旦那様、御免なさい」と一声高く叫んだ。涙が泉のように流れ、立ち上がることもできなかった。付き添いの看守が様々に説き聞かせて馬車に乗せ、刑場のある市ヶ谷監獄署へ送った。すぎは即日死刑に処せられた。(読売/M24/08/26)
高橋徳蔵 (36) 男性
・ 強盗殺人
・ 明治25年6月7日に高松(香川)で死刑執行
・ 従来の教誨の効果が著しく、最後の教誨で微笑んで、ただ、これから仏土に趣くのを楽しんでいるかのようであった。他の囚人にいちいち丁寧な別れのあいさつをするなど、立ち会いの看守も深く感動した。辞世2首「高橋に/御法(みのり)の水の/流れ来て/徳に洗うて/濁り去りけり」「盗人の/種播く者は/無けれども/酒と賭博が/元となるなり」(読売/M25/06/12)
長島高之助 (不明) 男性
・ 強盗殺人
・ 明治26年7月27日に市ヶ谷(東京)で死刑執行
・ 死ぬ前に申し上げたい重大な事があるので、死刑を3日間御猶予を願う」と声を放って号泣してその場を全く動かなかった。看守が引き立てて刑場に引き据えて死刑を執行したが、ロープから1度だけでなく2度まで外れて地上に落ちた。3回目で死亡。2度外れたのは例がないと老看守が述べる。(読売/M26/08/01)
尾崎留吉 (不明) 男性
・ 9人斬り
・ 明治27年7月19日に奈良で死刑執行
・ 何か言い遺すことはないかと問われて、留吉は微笑んで、「もとより大罪を犯した身で遺言もないが、ただ永々と皆様方の御厄介になったお礼を申し上げます」と言って、死に就いた。(読売/M27/07/23他)
榊原友諒 (不明) 男性
・ 2名を殺害し放火
・ 明治27年9月24日に市ヶ谷(東京)で死刑執行
・ 控訴のための預納金を納められず、控訴を取り下げて死刑執行。遺骸は妻はなに引き渡された。(朝日/M27/09/25)
今井ふじ (63) 女性
・ 金銭のもつれから娘横矢あさと謀って息子の恋人を殺害
・ 明治28年8月5日に市ヶ谷(東京)で死刑執行
・ 母娘が同日に死刑執行。(朝日/M28/08/08)
能智八太郎 (不明) 男性
・ 久万山の7人斬殺
・ 明治28年10月30日に松山(愛媛)で死刑執行
・ 「もはや、この期になっては遺言する事もありませぬ」と言って午前8時50分、平然と死に就いた。(朝日/M28/11/03)
斎藤甚吉 (27) 男性
・ 強盗殺人ほか多数
・ 明治29年9月3日に根室(北海道)で死刑執行
・ 軍・警察関係者以外に、検事の許可を得た者30名ばかりが参観。甚吉は絞首台の上で以下のように述べた。「私は罪という罪、悪事というあらゆる悪事を犯してきました。父母の大病の時にも家に寄りつかず、兄弟や親戚にも人の道を尽くしたことはなく、いつも彼らを苦しめた事だけでした。私は殺人罪の大罪人です。死はもともと当然の事です。私は畏れ多くも天皇陛下の大命によって宣告・執行されるこの極刑について怨み事を言う理由はありません。私のような大悪人の1人を殺すのは他の平和に暮らす4000万人の生命・財産を守るためで、私が死に値するのは当然の事です。誰も怨んだりしません。私は、自分の罪悪が世の人に迷惑をかけたことを深く懺悔します」。辞世3首。その後、死刑執行。看守が甚吉の立つ床板を開けて、甚吉は絞首台の下に吊り下げられた。しばらくして絞首台で首が絞まった状態でわずかに動くことが数回。苦しいか、楽なのか他人には分からない。5分間で全く絶命して斎藤甚吉はこの世の人でなくなった。
(読売/M29/09/15)
塩沢安太郎 (27) 男性
・ 親殺し
・ 明治31年3月11日に死刑執行
・ 立会検事は安太郎に向い、「死刑執行の上は、刑法16条に依り死体は親戚または友人の内、いずれなりとも引き渡すが、望みの者を申し立てなさい」と言った。安太郎は、ハラハラと涙を流して言った。「御親切なお言葉ありがとうございますが、このような大罪を犯した者をどこでも快く引き取る者はおりません。もし引き取ってくれる好意があっても、自分は死んだ後でもその人に顔を見られるのは恥しく思います。御執行のあとはどこへでもお取り棄て下さい」。(朝日/M31/03/12他)
山本充太郎 (28) 男性
・ 実母殺し
・ 明治31年9月26日に市ヶ谷(東京)で死刑執行
・ 小肥で壮健の男なりしが8分間にて絶息した。(朝日/M31/09/27)
金子民蔵 (26) 男性
・ 殺人
・ 明治31年11月8日に死刑執行
・ 死刑執行の言い渡しを受けた時、黙り込んで一言も発することができず、深く悔いる様子だった。(朝日/M31/11/09)
酒巻屋寿 (不明) 女性
・ 殺人
・ 明治32年3月29日に市ヶ谷(東京)で死刑執行
・ 死刑の執行を言い渡すと、狂い出し、人々をねめ回して言った。「何です。死刑ですと。何故、私が死刑にされます。孫次郎を殺したのは、さっき申し上げました通り、私ではなく八幡でございますよ。それを何だ探偵めが人をだまして。こんな所へ連れて来やがって殺すというのは一体全体何という事でございます。ハイ。私は死ぬのは嫌でございますよ」。暴れ狂うのをやっと絞首台へ登らせて午前9時20分執行。同53分に死体を親戚に引き渡す。(朝日/M32/03/30)
黒田水精 (46) 男性
・ 殺人。妻の華尾とともに従弟を殺して金を奪う。僧侶
・ 明治32年4月12日に名古屋(愛知)で死刑執行
・ 少し用事があるのでと水精を呼び出し、死刑の執行を告げる。水精はブルブルとふるえて立ちすくんで動けなかった。絞首台に登らせて、首にロープをあてようとすると、水精は声をふるわし、「ちょっと待って下さい」と2、3回くり返し、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱え(この間1分間)、死刑執行。20分後に華尾を呼び出す。獄中で出産した子供(3歳)と房内にいっしょにいたので、子供を外に出して、死刑の執行を告げるが、「かしこまりました」と平然と答えた。絞首台に登る直前に「ちょっとお待ち下さい。小便が…」と頼むが許されず、死刑執行。子供は華尾の実母に引き取られた。
(朝日/M32/04/13他)
大貫平造 (38) 男性
・ 強盗、強姦、殺人、放火
・ 明治32年4月29日に横浜(神奈川)で死刑執行
・ 教誨師は平造に向って「念仏を唱えろ」と言ったが、平造は「前の晩に唱えた」と言ってこれに応じなかった。首に縄がかかった時「なるべく具合いの良い所に縄を廻してくれ」と言って、落ちついて死に就いた。
(朝日/M32/04/30)
小高いく (30) 女性
・ 粗暴な性格で妻子を過酷に扱う父を妻・長女いく・次女よねが殺害
・ 明治32年6月8日に浦和(埼玉)で死刑執行
・ 長女のみが死刑。死刑の執行を言い渡されたが、いくは執行の何たるかを知らず、「どうするのですか」などと聞いていた。刑場に出るに及んで初めてそれと知り、顔色を変えて身ぶるいをしていたが、最後は覚悟を決めて落ちついて死に就いた。(朝日/M32/06/10)
椿本政吉 (28) 男性
・ 白昼の強盗殺人犯
・ 明治32年8月16日に死刑執行
・ 死刑執行の当日、刑場に出る前に、スイカ3切を舌つづみを打って食べ、遺書を書いた。刑場に出ると目隠しをしないで自分で絞首台に上り、「けふの日の/暮れるとばかり/鐘きけど/身の入相を/知る人もなし」と口ずさんだ。しかし、いよいよロープが首にかかった時、「もっと強く絞めてくれ」と絶叫した。(朝日/M32/08/20)
ロバートミラー (不明) 男性
・ 日本人1人、米国人3人に対する殺人
・ 明治33年1月16日に市ヶ谷(東京)で死刑執行
・ 初の米国人に対する死刑執行。特別扱いで前日に死刑の執行を告げられた。前日にエバンス牧師の教誨を受ける。看守に礼を言って定刻に寝るが、時おり大きく息をもらしていた。翌朝はパン1斤と牛肉などを与えられたが、悠々とこれを食べた。エバンス牧師同行で馬車で刑場のある市ヶ谷監獄署に移動。エバンス牧師に本国の親友への遺書を託す。エバンス牧師が「必らず渡す」と言うと、ミラーは感激して牧師や看守と握手した。目隠しの下から涙が流れていた。看守に導かれて絞首台に上がり死に就いた。執行前に「自分は海外に来て大罪を犯したが、死後は神の片側に至り、来世は立派な者に生まれ変わる」と看守に述べた。(朝日/M33/01/17)
黒田健次郎 (不明) 男性
・ 強盗殺人
・ 明治33年2月17日に市ヶ谷(東京)で死刑執行
・ 予納金の免除を許されず、控訴できなかった(この制度は明治33年3月で撤廃)。刑の執行の時、ひたすら怨み事を述べ、泣き倒れたりして看守に非常の手数を煩わした。(朝日/M33/02/18)
坂本啓次郎 (不明) 男性
・ 稲妻強盗と呼ばれる。罪状多数
・ 明治33年2月17日に市ヶ谷(東京)で死刑執行
・ 死刑執行を伝えられても落ち着いて看守に礼を述べた。辞世「かねて散る/花と思いは/知りつつも/今日の今とは/思わざりけり」「悔ゆるとも/罪のむくいは/逃げざれば/あしき名をこそ/後にのこせり」(読売/M33/02/18他)
傍島次郎吉 (不明) 男性
・ 父を殺した。
・ 明治35年3月12日に市ヶ谷(東京)で死刑執行
・ 刑場で教誨師は最後の教誨を行なおうとしたが、次郎吉はこれを辞退した。「今までに多く教誨を受けた身なので拝聴するにはおよびません。ただ、ねがわくば、橋爪おあかに自分の死後の回向を頼んで下さい。この事は既に手紙で申し送りましたが、さらに先生にお願いします」と沈んだ声で言って静かに絞首台に上った。午前9時25分死亡。(朝日/M35/03/13)
等々力音三郎 (39) 男性
・ 父を殺した。
・ 明治35年5月21日に市ヶ谷(東京)で死刑執行
・ 絞首台に上ってもなお、「父の杢八を殺したのは自分ではない。全く証人のために陥れられた」と言い続けた。午前9時10分執行。(朝日/M35/05/22)
内田市之助 (40) 男性
・ 強盗殺人
・ 明治35年10月10日に市ヶ谷(東京)で死刑執行
・ 身ふるえ足なえて罪を悔いる様子があった。死刑執行の直前に教誨師に向かって言った。「こうなっては別にこの世に言い遺す事もありませんが、心にかかるのは17歳の長女おこんと14歳の長男吉次郎の2人の子です。この2人の子に『決して悪い事をするな。父のような不心得の者になるな。後の回向を頼む』とのことを伝えるよう、どうかお願いします」と言って絞首台に登った。(朝日/M35/10/11)
榊原末吉 (32) 男性
・ 母を殺した。
・ 明治35年12月24日に市ヶ谷(東京)で死刑執行
・ 死刑の執行を前に、「少し言い遺したい事があるので1日死刑の執行を待って欲しい」と哀願して立とうとしなかった。教誨師が厚くこれを諭したが、「それならば夕方まで延ばしてくれ」とオイオイと泣き出して絞首台へ上がらなかった。暴れ回るのを看守が絞首台へ引き立てて死刑を執行した。17分間で落命。(朝日/M35/12/25)
五月女松太郎 (30) 男性
・ 強盗と放火。吉越忠吉と共犯で同日処刑
・ 明治36年1月7日に市ヶ谷(東京)で死刑執行
・ 松太郎は、「この絞首台は別の事件で服役していた時に自分が作ったものです。自分が大罪を犯して今日この絞首台の露と消えるとは思いもかけない事です」と言って刑に就いた。その後で忠吉が処刑。(朝日/M36/01/08)
石井澄蔵 (39) 男性
・ 強盗殺人。石井弥吉、井上仙吉が共犯で同日執行
・ 明治36年5月26日に市ヶ谷(東京)で死刑執行
・ 最後に執行を受けた澄蔵はしきりに八王子警察の悪口を言い放っていた。(読売/M36/05/27)
原田勝次 (57) 男性
・ 親殺し
・ 明治36年6月24日に市ヶ谷(東京)で死刑執行
・ 色を失ない、体が綿になったように全く力が抜け、ただふるえて人心地を覚えないような様子であった。(朝日/M36/06/25)
沼野彦太郎 (30) 男性
・ 強盗殺人
・ 明治37年1月22日に市ヶ谷(東京)で死刑執行
・ 「遺言の必要はありません。自分は元々強盗をするつもりなどはなかったが、情を交わした相手と夫婦となる約束があって金の必要ができて、ついに大罪を犯してしまいました。犯行の後は死刑の覚悟をしていました。再審を申し立て、判決から7ヶ月生き延びられたので満足です」。9時40分に絞首台に登り、同53分に死亡。(朝日/M37/01/23)
久保鶴太郎 (60) 男性
・ 強盗殺人
・ 明治37年7月30日に市ヶ谷(東京)で死刑執行
・ 「もはや言い遺す事はありませんが、今年で80歳の両親がいまなお存命です。できるならば、この執行のことだけは両親の耳に入らないよう御注意願えればと思います」。(朝日/M37/07/31)
鳥居亀吉 (31) 男性
・ 3人殺害
・ 明治37年8月12日に市ヶ谷(東京)で死刑執行
・ 「この世に思い遺すことはありませんが、ただ日露戦争の結果を見ないで死ぬのはいかにも残念です」午前8時41分執行を始め、同53分死亡。
(朝日/M37/08/13)
関恒夫 (24) 男性
・ 強盗5人殺人
・ 明治37年8月24日に市ヶ谷(東京)で死刑執行
・ 「犯人は自分ではない」と言い続けた。午前8時執行。(朝日/M37/08/25)
西条浅次郎 (27) 男性
・ 放火
・ 明治37年10月19日に市ヶ谷(東京)で死刑執行
・ 「もともと覚悟しております」悠々と絞首台に登った。午前8時20分執行。(朝日/M37/10/20)
須藤亀三郎 (46) 男性
・ 強盗殺人
・ 明治38年2月15日に市ヶ谷(東京)で死刑執行
・ 亀三郎は絞首台に登ると同時に看守に向って「一首辞世を詠みたいのでしばらくお待ち下さい」と言って、顔を下に向けて考え込んだ。しかし、死を間近にして心が動転しているため、上の句の「宵のうち/都の空に/迷うらん」と口に出したのみで、口ごもってしまった。何回も上の句を口にして当惑している様子であった。看守は余りに時間がかかるので、もはや辞世は終わったと見なして死刑を執行した。(朝日/M38/02/16)
大寺ヌイ (49) 女性
・ 情夫と供に夫を殺す。大阪屈指の資産家大寺家の娘
・ 明治38年8月24日に堀川(大阪)で死刑執行
・ 「私は死は覚悟の上ですが、家の事が…」と小声を発したのが最後。7時50分に執行。8時8分絶命。(朝日/M38/08/26)
松岡政吉 (21) 男性
・ 強盗殺人
・ 明治39年3月17日に仙台(宮城)で死刑執行
・ 非を悟り「宝よせ」「三年余」と題する2つの冊子を書く。良心の呵責を受けた跡が歴然としていた。死刑の執行にあたって全く恐れる様子はなく、辞世めいた2首を口にする。「死するとは/如何なることを/言うならん/毎夜眠ると/変わることなし」「渋柿も/取って棄つれば/益もなし/干したる後の/風味見られよ」。午前8時21分執行。(朝日/M39/03/19他)
中川万次郎 (不明) 男性

大阪堀江の6人斬り

・ 明治40年2月1日に死刑執行
・ 生前に、大阪医学校より解剖の申し入れがあり、万次郎は「医学界に貢献するのは望むところです。せめてもの罪ほろぼしです」と言って承諾した。解剖の結果、日本人にはまれなほど体格がよく、腕の上腕二頭筋、胸の大胸筋は普通人の倍ほどあった。5人や10人殺すのは簡単だろうと思われた。(朝日/M40/02/04)
武林男三郎 (29) 男性
・強盗殺人・殺人
・ 明治41年7月2日に市ヶ谷(東京)で死刑執行
・7月1日に千家司法大臣より、男三郎の死刑執行命令が出た。7月2日6時30分、男三郎は死刑の執行を言い渡されたが、「死刑執行」という一言を耳にしたその瞬間びくりと体をふるわせて、少し顔色を変えただけで、すぐに元通りの平然とした様子になった。男三郎が感情を抑えるのに巧みなのは、ほとんど持って生まれた才能である。

男三郎は許可を受けて手紙を何通か書くために筆をとった。それを書き終わった頃、典獄(所長)が15銭の上等弁当を差し入れた。おかずはアジとイカの煮付に香の物が添えてあった。男三郎はこの世の名残りの食い納めに飯粒1つ残さず食べた。

午前8時、典獄が、花井・小川・斉藤の3人の弁護士の中から1人死刑執行に立ち会うよう電話した。9時20分頃、斉藤弁護士が監獄に着いた。

看守室で男三郎と典獄、斉藤弁護士の3人が話すことになった。男三郎はにこにこしながら、斉藤弁護士に「永々お世話になりましたが、いよいよ本日刑に就きます」と言った。しばらく話した後に辞世を詠むと言って「おしからぬ・・・エートおしからぬ・・・」とくり返して後の句を考えていたが、どうしてもできない。横にいた典獄がちらっと時計を見たので、男三郎はそれと察してぴたりと話をやめて「さあ刑場にまいりましょう」と言った。そして「これが最後のお別れです」と言って斉藤弁護士と握手した。男三郎は服を浅黄の紋付に着更えた。そして「私は強盗や殺人犯と共に監獄の墓地で死骸を埋められるのは本当に嫌です。真言宗の寺に葬って下さい。これが最後のお願いでございます」と言った。

看守室を出ると10名程の看守があらわれた。男三郎は手錠と腰縄を嫌がって「それだけは許して下さい」と言った。結局、9時30分手錠だけはしないでしとしとと降る雨の中を刑場に向かった。同38分に死刑が執行され、同53分に絶命。

この日、男三郎の前に、巡査2人を殺害した加瀬利八の死刑執行もあった。男三郎と同じ弁当にちょっと箸をつけたきりで、親兄弟に送る手紙を弁護士に代書してもらうよう依頼した。「遺言なんざあ、ごぜえません」と言って9時10分絞首台に上り、12分間で絶命。(読売/M41/07/03)

鈴木芳太郎 (37) 男性
・ 強盗殺人
・ 明治41年8月4日に東京で死刑執行
・ 「今さら何も申し上げることはありませんが、わずか60銭を盗むために老婆を殺し、死刑になっては先祖や両親に恥しい。もう少し大きなことでもしていたならば、諦めもつくのだが…早くやって下さい」。
(読売/M41/08/05)
金在同 (33) 男性
・ 強盗殺人
・ 明治41年8月26日に長崎で死刑執行
・ 見苦しい最後を遂げた。(朝日/M41/08/28)
大久保時三郎 (37) 男性
・ 殺人
・ 明治42年4月23日に東京で死刑執行
・ 「他にも2件殺人を犯している」と称してその取り調べを要求して死刑の延期を図ったが、相手にされなかった。死刑の執行を告げられると、ぶるぶると体をふるわせて顔色を変えた。会う人ごとに「長々と御厄介になりました。さようなら」とあいさつをした。最後の入浴と食事を終わり、9時40分監獄を出て、同41分東京監獄の絞首台に登り、同50分死亡。
(読売/M42/04/24)
小滝恵比之助 (32) 男性
・ 娘と結婚して養子に入った先の養父母を殺害
・ 明治43年2月4日に東京で死刑執行
・ 最後までの妻子の事のみを言い続けた。16分間で絶命。(朝日/M43/02/05)
岩本初三郎 (31) 男性
・ 強盗殺人
・ 明治43年2月15日に東京で死刑執行
・ 上告したが、期日を経過していたため、無効を宣告された。死刑執行の前に「も一度上告さして下さい」と嘆願する初三郎を看守が無理に絞首台へ押し上げ。9時30分に執行。同45分に絶命。(読売/M43/02/16他)
清沢穀太郎 (32) 男性
・ 豪農田中おてい方へ押入り5人殺害
・ 明治43年6月21日に東京で死刑執行
・ 「この期におよんでは、もはや何も言うべき事なし」(朝日/M43/06/22)
横張作次 (35) 男性
・ 小作人団体の長で反対派の地主とその家族を殺害。共犯の矢口為三郎と同日執行
・ 明治43年12月13日に東京で死刑執行
・ 為三郎は9時20分に絞首台に上り、同34分絶命。作次は「残る妻子をよろしく」と遺言し、同50分に絞首台に上がり、10時9分絶命。作次のように19分も要したのは前例がない長時間である。(朝日/M43/12/14)
岡戸房太郎 (59) 男性
・ 36歳下の女性との結婚を中止させた夫婦と長男を殺害
・ 明治43年12月20日に東京で死刑執行
・ みかん10個を求めて、それを全部食べた。午前9時45分絞首台に上がり、同58分絶命。(読売/M43/12/21)
幸徳伝次郎 (不明) 男性
・ 大逆事件
・ 明治44年1月24日に東京で死刑執行
・ 東京監獄署で明治44年1月24日午前中に幸徳伝次郎、管野スガ(注 管野は実際は25日に執行)、新実卯一郎、内山愚童、奥宮健之、古河力作、森近運平、松尾卯一太が執行、午後に宮下太吉、新村忠雄、大石誠之助、成石平四朗が処刑。幸徳が19日に書いた最後の手紙「まずは善人栄えて悪人滅ぶ。めでたし、めでたしの大円団で、僕も重荷を下したようだ。今日は気も心ものびやかに骨休めしている。これから数日間か数週間か知らぬが、読めるだけ読み書けるだけ書いて、元素に復帰する事にしよう。一切、人の世の面倒な義務も責任も是で解除となるわけだ。ただ、覚悟のなかった大勢の被告、ことに幼ない子供のある人や、世間を知らない青年などはいかにも気の毒でならないが、しかしどうする事も出来ない。難破船にでも乗り合わせたとでも思ってあきらめてもらうほかはない。君も出来るだけなぐさめてやってくれ。一粒の塵、一本の毛のような生涯も全く意義のないものではあるまい。また何かの因縁になるのだろう」。
(朝日/M44/01/25他)
竹内徳蔵 (24) 男性
・ 雇主夫婦を雇人2人が殺害。徳蔵のみが死刑
・ 明治44年4月12日に東京で死刑執行
・ 「たびたび親兄弟にも面会し、今は思い残す事はありませんが、天罰の恐ろしさはつくづくと身に感じました。どうか私に代わって主人夫婦の墓参りを願いたい」と泣きながら述べる。(朝日/M44/04/14)
岩上洪治 (20) 男性
・ 盗みに入った所を見つかり強盗殺人
・ 明治44年7月13日に東京で死刑執行
・ 犯行時未成年で、死刑を執行されたのは、法律制定以来これが最初である。洪治は執行の際に一目母に会いたいと、しきりに「お母さん」と呼び叫んで泣いた。8時11分絞首台に登らせ同24分絶命。(読売/M44/07/14)
不明 (不明) 
・ 木名瀬礼助看守の論文に出てくる死刑囚2人
・ 死刑執行(年月日不明)
・ 死刑を執行するにあたって、私は指揮・監督の立場で部下の執行者に現場で殺事を行わせた。その時の様子は、いくら職務であっても指揮者(である私)の部下たちの顔色は蒼ざめて、むしろ受刑者よりもかえって弱気になっているありさまだった。私も、言うまでもなく、この惨刑を執行する現場では惻隠・同情する気持ちが強くなったけれども、この場合、弱気を見せることは許されなかった。私は自ら進んで剛胆さをふるいおこし、虚勢を張って絞首台の上下周囲の者を指揮・監督した。予定通り首にロープを掛け、受刑者の立つ踏板を外した。受刑者が落ちると同時に思いもよらなかったことだが、ロープが中間で切れて受刑者が下に落ちて地面に倒れた。この予想外の出来事に際して、執行吏はもちろん、立会官もいっしょになって一時、呆然となってどうしたら良いのか分からなかったが、間髪を入れず対応すべき機会であり、一刻一秒も躊躇すべき時ではなかったので、私は自らその現場へ飛び込んで、受刑者の首に残っていた切れたロープを締めた。一方でそれを絞首台の上に結びつけて、更に釣り上げ、やっとのことで執行を終了した。ああ、この間の無惨・残酷については、今話すのであっても戦慄の思いを強く感じてしまう。

また、強盗殺人犯の死刑を執行した時の話である。ちょうど、執行命令が出たため刑場の準備をしていた。罪人に死刑の執行命令が出たことをまだ伝える前に、罪人から再審申立をしたいと申し出があった。もはやその余地はなく、既に死刑執行命令が出ている事を罪人に話して聞かせた。彼は大変な憤懣をもって苦情を唱え、死刑の執行を容易に受け入れようとはしなかった。さらに教誨師から丁寧に話してもらったが、彼は頑として不当であると主張し、全く考えを変える様子がなかった。そこで止むを得ず強制的に彼を絞首台へ引き連れていった。その時の状況で私は狂牛を引いて屠殺場へ行かせるような気持ちになった。

このような事例について、これを職務上の当然の行動であると言う者がいるのであれば、私は語る言葉を失ってしまう。そもそも死刑の宣告のあと執行に至るまでの間、数ヶ月もしくは数百日間、監獄が直接担当して拘置し、監獄の官吏は平素接して話をし、法律規則の許す限り保護を加え、あるいは教誨をするなどしている。慣れるに従って自然と愛憐の情が深くなるのは人間の情としてあたり前である。それなのにいったん命令があれば、その者の死刑の執行を行うにあたって、前述のような大胆・勇気をふりしぼってその任に当るためには、俗に言う「昨日の仏、今日鬼」とならざるを得ない。(監獄協会雑誌M40/02/20)

3 小括

絞首刑が憲法36条に違反する残虐な刑罰であることについて、補足した。

第2 憲法31条違反

「上告趣意書 第1点 第2 1」(13~15頁)において、わが国の死刑で受刑者の頭部離断が起こり得ることを前提として、わが国の死刑は受刑者の頭部を離断する死刑になりうるから憲法31条に違反する、またわが国の死刑は関係する法律に法律事項であるべき内容が記載されていないので憲法31条に違反する、と述べた。この論述の結論部分について補充する。

福島みずほ参議院議員が、第176臨時国会で、2010年10月25日に「法務省による東京拘置所の刑場公開に関する質問主意書」(質問61号)、2011年1月24日に第177通常国会で「法務省による東京拘置所の刑場公開に関する質問主意書(質問16号)及び同年5月26日に「法務省による東京拘置所の刑場公開に関する再質問主意書」(質問163号)を提出し(これらをそれぞれ「質問主意書①」、「質問主意書②」、及び「質問主意書③」と記す)、それに対して政府がその都度答弁書を送付している。弁護人はこれらの質問主意書とそれぞれに対する答弁書を参議院のホームページから入手した。

質問主意書①の質問三と四及びそれらに対する答弁を以下に引用する。(以下質問は2文字、答弁は4文字右よせとする。)

三 布告六十五号によれば、絞首された者は「囚身地ヲ離ル凡一尺空ニ懸ル」と規定されている。つまり、死刑囚を地上約三十センチメートルの高さまで落下させて宙づりにする。現在の各刑場での死刑執行においても、布告六十五号と同様の運用を行っているのか。

四 現在の各刑場での死刑執行において、布告六十五号どおりの運用が行われていないとすれば、運用が変更された時期ごとに、その変更の時期及び内容並びに変更の理由を説明されたい。

各刑場の刑具は、開落式踏板上の被執行者の身体の自重によって絞首する機構であり、絞首された被執行者と床面との間に距離をおく運用について絞罪器械図式と変わるところはない。ただし、絞首された被執行者と床面との間の距離については、個々の死刑執行により異なる。

同じく質問主意書①の質問五と六及びそれらに対する答弁を引用する。

五 海外においては絞首刑を執行するにあたって、死刑を執行される者の体重等に応じて絞縄の長さを調整し、同人を落下させる距離を変更している。これは、落下距離が短いと同人が意識を保ったまま窒息し、死亡までの時間が長くなる可能性があり、逆に落下距離が長いと落下の衝撃で同人の首が切断される可能性があるためと承知している。わが国の死刑執行においても同様の運用が行われているか。

六 わが国において五で示したような運用が行われているとすれば、具体的にどのように行われているか。その際、死刑囚の体重とそれに見合った落下距離を算出する表を使用しているか。使用しているならば、それはどのようなものか示されたい。また、そのような運用はいつから行われているか。何らかのきっかけがあったのであれば、それも示されたい。

絞縄については、個々の死刑執行ごとに、被執行者の身長、体重等を考慮し、死刑執行を確実に行うために必要な長さに固定している。

なお、お尋ねの表は存在しない。

質問主意書③の質問一及びそれに対する答弁を引用する。

一 答弁書(内閣参質一七六第六一号)では、「絞首された被執行者と床面との間の距離については、個々の死刑執行により異なる。」との答弁であった。例として東京拘置所の刑場における死刑執行について、絞首された被執行者と床面との間の距離は、約三十センチメートルのこともあれば、約一メートル、約二メートル、約三メートル、あるいは約四メートルいずれの場合もあり得るのか。絞首された被執行者と床面との間の距離について、現在の運用においてあり得る最小の距離と最大の距離を具体的な数値をもって示されたい。

先の答弁書(平成二十二年十一月二日内閣参質一七六第六一号)三及び四についてで述べたとおり、絞首された被執行者と床面との間の距離については、個々の死刑執行により異なり、お尋ねの「現在の運用においてあり得る最小の距離と最大の距離」については、一概にお答えできない。

質問主意書③の質問二と三及びそれらに対する答弁を引用する。

二 答弁書(内閣参質一七六第六一号)の「絞縄については、個々の死刑執行ごとに、被執行者の身長、体重等を考慮し、死刑執行を確実に行うために必要な長さに固定している。」との記述だけでは、現在、絞縄を必要な長さに固定する際に、その長さを、具体的に、いつ誰がどのように決定しているのか判然としない。個々の死刑執行において、絞縄を固定する長さを具体的に決定する手続き、及び、その長さを具体的に算出する方法を示されたい。刑事施設ごとに違いがあるならば、その旨を述べた上で、東京拘置所の例を具体的に示されたい。

三 個々の死刑執行において、絞縄を固定する長さを具体的に決定する手続き、及び、その長さを具体的に算出する方法を規定した法律、行政規則(命令・訓令・通達・内部規則等)は存在するか。存在するのであれば、その内容を全て示されたい。刑事施設ごとに違いがあるならば、その旨を述べた上で、東京拘置所の例を具体的に示されたい。

前回答弁書(平成二十三年二月一日内閣参質一七七第一六号)二から四までについてで述べたとおり、死刑執行を確実に行うためには、絞首された被執行者と床面との間に距離をおく必要があるので、個々の死刑執行ごとに、被執行者の身長、体重等を考慮し、死刑を執行する刑事施設において絞縄を必要な長さに固定しているものである。

これらによれば、死刑囚の首に絞縄を掛けて落下させる際に、どの程度落下させるかは、法律、行政規則(命令・訓令・通達・内部規則)等によって定められておらず、いわゆる「落下表」も用いられていないことが明らかである。また「個々の死刑執行ごとに、被執行者の身長、体重等を考慮し、死刑を執行する刑事施設において絞縄を必要な長さに固定している」「絞首された被執行者と床面との間の距離については、個々の死刑執行により異なる」とある点は、明らかに布告65号と異なる運用である。

すでに述べてきたとおり、受刑者の落下距離は、頭部離断が発生するか否かを決定する重要な要因である。完全な頭部離断が起こるのであれば、それはわが国の法律が定める絞首ではない。また、その場合、死刑を執行された者の頭部とその余の身体は分離して床に落下するから、布告65号のいう「囚身地ヲ離ル・・・空ニ懸ル」との運用とも違う結果が生じる。

以上、わが国においては、死刑の具体的な執行方法としての死刑囚の首に絞縄を掛ける際の絞縄の長さの決定が、すべて執行者の裁量に委ねられており、法律、行政規則(命令・訓令・通達・内部規則)等によって定められていないことになる。また、いわゆる「落下表」も用いられておらず、執行現場の判断で決められる絞縄の長さに科学的な根拠があるのかも不明である。

このような絞首刑の執行の在り方は、「何人も法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない」とする憲法31条に違反するものである。

第3 結論

わが国の死刑が憲法31条、36条に違反することは明らかであり、原判決は刑事訴訟法410条1項により破棄されるべきである。

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