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刑法学者正木亮博士の意見(1952年)-日本の絞首刑は他国と比較して最も残虐な刑罰である-

刑法学者正木亮博士の意見(1952年)

1952年(昭和27年)1月4日、松下今朝敏・今井春雄両名に対する強盗殺人被告事件、刑法学者の正木亮博士は絞首刑に関する鑑定書を東京高裁刑事一部に提出しました。その記録は「死刑廃止論の研究」(法学書院、1960年)399~424頁に掲載されています。ここではその内容を抜粋して引用します。

正木博士は日本の絞首刑は他国の死刑執行方法と比較して最も残虐な刑罰であると述べています。なお旧仮名遣いを新仮名遣いに改めるなど修正をしました。

正木亮博士の鑑定書(昭和27年1月4日)

《引用開始》

第1章      緒言

昭和26年8月2日大阪拘置所に於て東京高等裁判所第1刑事部より現行死刑執行方法が残虐なるものなりや否、諸外国の制度との比較考証に関する鑑定を命ぜられた。仍(より)て鑑定人は爾来3箇月に渡り世界各国の死刑制度を検討し、わが国の現状を調査し、信義誠実に基いて左の鑑定書を作成した。

(イ)鑑定を申請したる被告人松下今朝敏の弁護人向江璋悦は鑑定人が過去に於て死刑執行を見分したことがありや否やの回答を求めて居る。恐らく、申請人は死刑の鑑定人が死刑を実地見分したか否かによってその鑑定の価値に大きな条件を付けようとして居ると思われる。

幸か不幸か鑑定人は昭和11年2月市ヶ谷刑務所に於て執行されたる強盗殺人犯人の執行に立会する機会を得て居る。当時鑑定人は東京控訴院検事として旧刑事訴訟法第541条に基き裁判所書記を帯同、先ず市ヶ谷刑務所死刑場附属の阿弥陀室に於て受刑者、刑務所長、検事(鑑定人)、書記列席の下に教誨師の読経があり、次で刑務所長より遺言の機会を与える。最後茶菓を与えて、2人の看守附添い刑場に連行、目かくしをして首に絞縄をかけ、準備了ると看守が受刑者の立って居る仮天井を落とす。受刑者の体軀が垂下すると保険技師は直ちにその脈搏をとり絶命と共に之を屍室に納めた。

監獄法第72条には「絞首の後死相を検し仍(な)お5分時を経るに非れば絞縄を解くを得ず」と規定されて居るが、本件の場合の所要時間は14分であった。

此の死刑執行実見によって特に感ぜられたことは、執行前に受罰者に過大なる恐怖を与えることである。執行前の儀式が長が過ぎる。絞首台に行く路ゆきが長が過ぎる。絞首台の設備、例えば絞縄の取付が大げさであり過ぎる。従って本件の死刑囚も執行前に既に失心状態に陥って居たが、その様な現象が他の多くの死刑囚にも起ることが考えられる。

第2に、死刑執行官吏に対して同情が起る。即ち、死刑執行吏等は執行前に絞縄を取付け、ハンドルの手入等を多忙に行うが、今日の職務を決して喜んで居らない。只職の為に行って居るに過ぎない。或執行官吏が述べたところによると、死刑執行後慰労の為に府中刑務所まで出張を命ぜられたが、囚人護送車には胸がむかついて乗れないということであった。ステファン・ツワイグStefan Tweigが「現代の文化の中で公に人を屠殺することによって俸給を貰うというようないやな制度、文化をけがして居る制度はない」旨のことをいって居るが正にこの死刑執行を見たときに痛切に感じたものである。

(中略)

第6章 死刑執行方法の変遷と其の理由

古来死刑の執行方法は多種多様である。国の東西を問うところでない。縛首、獄門、磔、串刺、鋸挽、牛裂、車裂、火焙、煮殺、臥漬、投水等。ニュールンベルグの拷問館 Folter Kammer に陳列されている死刑具は往時のヨーロッパに於ける殆んど全部といえよう。文化のなかった時代には人智を傾けて残虐刑具を考え、之を見せしめとして、一般予防の役割に備えた。従ってその時代に於ては可及的に惨虐なる刑具を発明することに力がそそがれた。

だから、昔の死刑具は世紀を重ねるに従ってより惨虐なる方法が行われるようになって居た。

モンテスキューはかような惨虐刑に始めて偉大なる抗議をなした。即ち彼は「法の精神」De lesprit des loisに於て「害悪を即時に抑止すべき苛酷な刑罰を設定する。が、その為に政体の発条は消耗する。想像はやがてこの重い罰に慣れてしまう。より軽い罰になれた如くに」と述べて、「人間を導くに極端な手段を以てしてはならぬ」として死刑の公開を非難した。その頃惨虐なる死刑に反対ののろしを挙げた3人の賢人が居た。曰くチェザーレ・ボネサーナ・マルケーゼ・ディ・ベッカリーア、曰くヨハン・ヒンリッヒ・ペスタロッチー、曰くジョン・ハワード。この3人は死刑が犯罪防遏に役立つよりもむしろ国民風教を毀害し、反って後の犯罪の遠因となることを力説した。

此等の人々の主張はやがて死刑廃止論という刑罰革命を捲き起すに至ったが、上述したように、たとい死刑廃止国の列に入らなくともそれ以後の死刑制度に於ては如何にすれば惨虐性を少なくすることが出来るか、如何にすれば刑死者の痛苦を軽減することが出来るかということが研究されるようになった。

前章に於て述べた様に北米合衆国ニューヨーク州で発明された電気殺は惨虐な野蛮刑絞殺への革命であった。更にネバダ州で発明された瓦斯殺はD・A・ターナー少佐の宣言によれば惨虐なる絞殺及電気殺への人道的革命である。

わが刑法並監獄法改正委員会は死刑問題を行刑制度調査会に移譲した。この調査会に於てはわが国絞首刑を革命することは出来なかったけれども、死刑執行方法は可及的に惨虐を避けることを原則とすることとの答申をなして居る。即ち、今日の刑事政策に於ては世界的に、未だ多くの国が死刑を存置して居る限り之を人道的な方法に改正して行くべきことが要請されて居る。

かような刑事政策上の命題の上に立って今日行われて居る世界死刑執行方法の惨虐程度に差等をつけるとすれば、之を発生的形態より見れば絞殺、斬殺、銃殺、電気殺、瓦斯殺という順序になる。殊に、絞殺は人智全く啓けなかった時代に於て縛首という刑罰として起り、今日僅かに垂下式絞殺法として存在して居るが、その執行に過大の衝撃を与えること、絶命までに長い時間を要すること、方法が陰惨であること等に於て斬首よりも惨虐なる刑罰とせられて居る。

1933年3月19日のドイツ死刑の宣告及執行法に於て絞殺、斬殺、銃殺の3種を設け最も重き罪に絞殺を次に斬殺、最も情の軽い死刑囚には銃殺を用いることに定めたのは死刑の惨虐性の差等につき絞殺を最上位と認めた適例の立法である。

勿論死刑制度の軽重を定るに付ては国民性が非常に考慮されねばならない。

例えば、フランス人はドイツ人の用いる手斧刑を極端に排斥するようにドイツ人はフランス人のギョッチンを極端に排斥して居る。しかし、絞殺刑が世界の各国民に忌み嫌われ、最も破廉恥的な野蛮刑であるとされて居る点は共通である。曩(さき)に述べたドイツ死刑法がその1例であると共に先般の国際裁判に於て死刑に絞首刑と銃殺刑を採用して重罪者には絞首刑を用いたことは絞殺刑が重罪であることを示した実例の他の1例である。

かように考証して来ると今日の死刑執行方法の中で最も野蛮であるとされ、惨虐であるとされ且最も速に改革又は廃止されねばならぬとされて居るものは絞首刑であるということが出来る。

死刑執行方法は別として「死刑」そのものが日本国憲法第36条に規定されるところの惨虐なる刑罰に該当するか、又わが刑法第11条に規定される絞首刑が右憲法上の惨虐なる刑罰に該当するや否やに関し昭和23年3月12日の最高裁判所は次の如き理由を以て惨虐なる刑罰に非ずと宣言して居る。即ち

「生命は尊貴である。1人の生命は、全地球よりも重い。死刑はまさにあらゆる刑罰のうちで最も冷厳な刑罰であり、またまことにやむを得ざるに出ずる究極の刑罰である。それは言うまでもなく、尊厳な人間存在の根元である生命そのものを永遠に奪い去るものだからである。現代国家は一般に統治権の作用として刑罰権を行使するにあたり、刑罰の種類として死刑を認めるかどうか、いかなる罪質に対して死刑を科するか、またいかなる方法手続きをもって死刑を執行するかを法定している。そして、刑事裁判においては、具体的事件に対して被告人に死刑を科するか他の刑罰で科するかを審判する。かくてなされた死刑の判決は法定の方法手続きに従って現実に執行せられることとなる。これを一連の関係において、死刑制度は常に、国家刑事政策の面と人道上の面との双方から深き批判と考慮が払われている。されば、各国の刑罰史を顧みれば死刑の制度及びその運用は、総ての他のものと同様に、常に時代と環境とに応じて変遷があり、流転があり、進化がとげられてきたということが窺い知られる。わが国の最近において、治安維持法、国防保安法、陸軍刑法、海軍刑法、軍機保護法及び戦時犯罪処罰特例法等の廃止による各死刑制の消滅のごときは、その顕著な例証を示すものである。そこで新憲法は一般的概括的に死刑そのものの存否ついていかなる態度をとっているのであるか。弁護人の主張するように果たして刑法死刑の規定は憲法違反として効力を有しないものであろうか。まず憲法第13条において、すべての国民は個人として尊重せられ、生命に対する国民の権利については、立法その他の国政の上で最大の尊重を必要とする旨を規定している。しかし、同時に同条においては、公共の福祉という基本的原則に反する場合には、生命に対する国民の権利といえども立法上制限乃至剥奪されることを当然予想しているものといわねばならぬ。

そしてさらに、憲法第31条によれば、国民個人の生命の尊貴といえども、法律の定める適理の手続きによって、これを奪う刑罰を科せられることが明らかに定められている。すなわち憲法は現代多数文化国家におけると同様に、刑罰として死刑の存置を想定し、これを是認したものと解すべきである。言葉をかえれば、死刑の威嚇力によって一般予防をなし、死刑の執行によって特殊の社会悪の根元を絶ち、これをもって社会を防衛せんとしたものであり、また個体に対する人道観の上に全体に対する人道観を優位せしめ、結局社会公共の福祉のために死刑制度の存続の必要性を承認したものと解せられるのである。弁護人は憲法第36条が残虐な刑罰を絶対に禁ずる旨を定めているのを根拠として、刑法死刑の規定は憲法違反だと主張するのである。

しかし死刑は、冒頭にも述べたようにまさに窮極の刑罰であり、また冷厳な刑罰ではあるが、刑罰としての死刑そのものが、一般に直ちに同条にいわゆる残虐な刑罰に該当するとは考えられない。ただ死刑といえども他の刑罰の場合におけると同様にあ、その執行の方法等がその時代と環境とにおいて人道上の見地から一般に残虐性を有するものと認められる場合には、勿論これを残虐な刑罰といわねばならぬから、将来若し死刑について火あぶり、はりつけ、さらし首、釜ゆでの刑の如き残虐な執行方法を定める法律が制定されたとするならば、その法律こそは、まさに憲法第36条に違反するものというべきである。前述のごとくであるから、死刑そのものをもって残虐な刑罰と解し、刑法死刑の規定を憲法違反とする弁護人の論旨は理由なきものといわねばならぬ」(注1)

(注1)最高裁判所判例集第2巻第3号第192頁以下。

右判例によると、死刑の中には惨虐な執行方法と然らざるものとがある。火あぶり、はりつけ、さらし首、釜ゆでの刑が惨虐であることは判例も之を認めたが、その他の方法が惨虐であるか否かは、その時代、環境、人道上の見地から定むべきだとしたのである。

この判例を作った裁判官等が死刑の執行を実見したことがあるか、実見の上でこの判例が作られたとすれば刑の惨虐性の判定の上に非常なる価値が生まれて来るのであるが、若し然らずとすれば、この判例は観念的・想像的なる判定に過ぎない。

とまれ、判例は時代と環境と人道上の見地よりその死刑が残虐なりや否やを定むべきものだという。

鑑定人は判例の趣旨に基づいて絞首刑の惨虐なりや否やを鑑定して見よう。

第7章 絞首刑は残虐刑か否か

絞首刑が残虐刑であるか否かの問題は各面によって意見が異る。従って、この問題を解決する為にはその各々の面の見方を説明する必要がある。

第1に、わが判例にあらわれた意見。

此の意見は前章に述べたように、誠に抽象的な意見である。此の判例によれば死刑の執行方法の中にはわが憲法第36条に禁止して居る死刑方法と禁止しない方法とがあるというのである。そして禁止して居る死刑方法というのは、火あぶり、はりつけ、さらし首、釜ゆでの刑ごときをいうと説明して居る。この説明によると判例が残虐性と認める点は罪人本人の痛苦というよりも刑罰の公開による世人の残虐感の強いものを残虐刑として居るようである。

火あぶり刑も、はりつけ刑も、徳川時代に用いられた公開の死刑方法であり、且その執行方法は本人が痛苦を感じたであろうことは想像出来るが、特に、刑事史に残されて居る点は公衆の面前に於て残虐なる執行をなし一般のみせしめとなしたという点である。判例が、この点に重きを置いて残虐の意義を定めたと思われる点は右4つの中に刑死後の罪人の首をさらす処分を以て残虐なる刑として挙げて居る点である。

さらし首は死刑ではなく、死刑後の付随刑である。ドイツの旧刑法に死刑又は無期刑者に名簿を剥奪する刑を付随せしめたのと同様である。最高裁判所の裁判官がさらし首を死刑と誤解するようなことがある筈がない。しかるにここに特にさらし首が列挙せられて居ることは、残虐刑とはさらし首のようにむごい取扱いをする刑罰という意味に用いられたものと思われる。

果たして、しからば、判例による残虐とは本人の痛苦とは何等の関係のない大衆感に基いて定まるということになるのである。従って、密行されて居る今日の絞首刑は憲法の禁止する残虐の観念にあてはまらぬということになるのである。

第2に刑事史的の考察に基く絞首刑の残虐性に付てみよう。

刑事史的に見れば絞首刑は自然発生的である。故に、その方法は又各種各様であって、或は満州国に行われた様に1本の小棒と1本の縄とで首をしめたもの、或は立木の枝に吊してしめたもの、徳川時代の様な縛り首、前述した如き近代の諸様式殆ど一定するところがない。

しかしその何れの方法によっても、屍体の点に於ては他の如何なる死刑方法よりも残虐性は少ない。然るに拘らず、各国に於て絞首刑は残虐なるものとして排斥されて居る。1882年ニーヨーク州に於て絞首刑に革命が起り電気殺が採られるようになったのも結局絞首刑が残虐だという思想からであった。

逆に1933年ドイツの死刑法に於て死刑の順位が定められ絞首刑が最も重いとされたのも絞首方法は残虐だという観念に基いたものである。

第3に人道的見置に基く残虐性の観念に基く死刑方法の改革。

死刑方法の人道的見地ということはひとり客観的見置のみでなく、受刑者本人の立場に立って解決されなくてはならない。前述したように、アメリカのD・A・ターナー少佐が瓦斯殺を以て人間を殺すに最も速いそして最も人道的な方法であるといい、更に絞首刑は人間がトラップから落ちた後7分から15分意識があり、電気殺は死の直前3度も4度も非常な衝撃を受けるとして何れも瓦斯殺よりも非人道的だとして居るのは、死刑の執行後長く本人を苦しめるような方法は非人道的であると指摘したわけである。

絞首刑を維持しようという人は、ドイツ等で行われる手斧刑、フランスのギョッチンは首が飛び血がはねて絞首刑よりも残虐であると主張する。しかし、この残虐悲惨は外見的であって本人に関するものではない。

D・A・ターナー氏の意見は人道的といい、残虐という用語は本人の痛苦を基本として考察すべしとなして居るのである。

此の見解によれば、刑事学的研究の結論は死刑執行法として今日の瓦斯殺が最も残虐性が少く、電気殺が之に次ぎ銃殺、斬殺、最後に絞首刑とされるのである。

而して今日の死刑執行方法が刑事政策的に残虐性を除去することに努力実行しつつあることは事実であり、且その結果が諸国に実現されつつあるのである。

以上の諸点を綜合してわが国の絞首刑が刑事学的にも最も残虐なる刑罰であるということは明言することが出来る。

第2章      結論

要するに、現在の死刑執行方法が憲法第36条の所謂「残虐なる死刑」に該当するや否やは之を法律解釈と刑事学とによって定むべきことはいうまでもない。

然るに、わが最高裁判所は只法律解釈の上から判断したに過ぎない。

しかし、憲法第36条の「残虐」の観念は刑事学の研究に基礎を置き然る後に法律上の結論を生むべきものである。

鑑定人はさような見置に立ち刑事学上死刑執行方法の歴史的変遷、各国の先例、各国の現状、刑事学界の傾向等を研究考覈して左の結論に到達する。

意見

1 日本刑法第11条所定の死刑は残虐なる刑罰である。

2 日本刑法第11条所定の絞首刑は刑事学上現存する諸国の死刑執行方法に比し最も残虐なる刑罰である。

以上(原文のまま)

《引用終了》

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