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英国の法医学者の論文(絞首刑ですぐに死亡するとは限らない)

資料21抜粋

以下で示す文章は、英国のカーディフ国立病院・ウェールズ法医学研究所のリック・ジェームズ医者ほか1名が、英国で1882年から1945年までに絞首刑に処せられた34遺体を発掘・調査した結果を踏まえて書いた論文の抜粋です。彼は絞首刑による死が「ほぼ瞬間的」であるとの通説に疑問を呈しています。

出典は「国際法科学 54巻(1992年)」の81~91頁。論文の題名は「絞首刑の刑死者における頸部骨折の頻度」です。

《引用開始》

絞首による処刑は、聖書の時代の初期以来ずっと実施されていて[1,2]、紀元449年ころに始まった侵入の結果として、アングル族・サクソン族・ジュート族によってイングランドに持ち込まれたが、実際はそれ以前から犯罪者を窮地に陥れていた[3]。斬首刑は時として揺れ動く貴族政治に用いられた。より多く用いられることもあったのは外国の釜ゆで刑、火あぶり刑、圧殺刑、溺死刑、絞首刑、四肢切断刑、四つ裂き刑であった。鎖で吊してさらし者にする刑は、犯罪を抑止する効果(もしくは見世物的な価値)をそのセレモニーに加えるために用いられた。それでも、絞首刑は1965年に殺人に対して死刑が廃止されるまで、何世紀ものあいだずっと英国の死刑執行人の主要な生活の糧であった。

絞首刑に関するその時代ごとの記述は、絞首刑の頻度、絞首刑に対する大衆の評価、および判決を執行する絞首刑執行人が用いる技術が、変化する方向を示している。絞首刑の始まりは、死刑に処せられる者がロープの端で‘ダンスして’緩徐に窒息していく処刑方法であったが、それ以来、完全な――‘きれいで瞬間的な’処刑を追求して、何世代にもわたる絞首刑執行人の努力とともに、より科学的な探求がなされてきた。落下する距離;縛り方;ロープの太さ;結び目の位置;これらの修正の全てが多様な、時には悲惨な結果を引き起こした。

公開で絞首刑が行われていた間は、瞬間的な死という主張はなかったが、1868年に公開処刑が廃止された後は、それ以来、個人の処刑に関しての記載がほとんど無いので死の迅速性を評価することは困難である。実際のところ、今世紀の初めから単に情報が発表されただけとなり、それは政府の指示により‘何事もなく死刑は執行され、ほぼ即死であった’との趣旨の短い声明であった。絞首刑でのどんな‘都合の悪い出来事’もその死刑執行に立ち会った者の1人が話をしようと思わなければ、世間の知るところとはならなかった。絞首刑執行人は死刑執行後の検死に立ち会うよう要求されることなく、これらはしばしば医学的な情報を収集することもなく手短に終わる業務であった。

例えばピエールポイントのようなその後の絞首刑執行人が刊行した回想録は、全例で瞬間的な死が起こったと主張しているが、問題にされてないわけではなく、ロングドロップ法の導入の後に‘きれいで瞬間的な死’という結果に終わらなかった絞首刑があったという根拠がある。

(中略)

ホートン教授は19世紀半ばに絞首刑の改良の運動の最前線に立ち、一連の提案の中で瞬間的な死を目的として、結び目を左耳か顎の下にするロングドロップの導入を求めた[12]。前者の方法がカルクラフトの後継者であるマーウッドに採用された。マーウッドは、その後継者のビンスがそうしたように、8フィート(訳注 2.44メートル)ほどの落下距離を用いる傾向があった。マーウッドは、紐穴のある真鍮の金具を付けたロープを採用した。その金具にロープの一端が固定され、もう一端がその穴を通って自由に動く輪縄を形作った。紐穴はゴム製のワッシャーで左の下顎角に固定された。本邦において絞首刑が廃止されるまで本質的に変わることなく維持された。この方法は、首の骨折もしくは脱臼による即死を起こすことを意図していた。1884年に絞首刑執行人となったベリーは、1885年にロバート・グッダルの不幸な頭部離断まで同じ落下距離を用いていたが、その後、改訂した落下表を作成した[13]。一般からの圧力で、死刑判決に関する審議会が設置され、死刑の執行方法について報告した。そのさいに強制的な過伸展によってより効果的であると主張して顎下の結び目を採用するようにとの強い請願があったにもかかわらず、同委員会は、新しい基準に基づく落下表――ベリーのものより短い――を作り、左の耳下の結び目を継続して使用するよう推奨した。一九一三年にフレデリック・ウッド=ジョーンズ医師が耳下の結び目は絞殺による死につながるとして、顎下の結び目を求める意見を述べた。彼は、植民地であるラングーン中央刑務所で行われた顎下の結び目を用いた一連の絞首刑は、全例で第2頸椎の椎弓根の両側において骨折を呈していた、つまり後弓が折れていたとするC.F.フラスター大尉の業績を引用して、顎下の結び目がより効果的であると主張した。このことは、顎下の結び目が使用されたならば、C2の骨折、脱臼、および脊髄損傷が同じ高さで起こると記述したヴァームーテンによって確認された[15]。しかしながら、顎下の結び目の使用は英国の植民地で大いに広まる一方で、本国では決して用いられなかった。この間、絞首刑執行人としての技は失われないように絞首刑執行人から絞首刑執行人へと伝えられた――ベリーはマーウッドから習った;ヘンリー・ピエールポイントは弟のトムを教え込んだ;トムはアルバート・ピエールポイントと後の絞首刑執行人でアルバート・ピエールポイントによる処刑で何度も助手を務めたスティーブ・ウエイドを教え込んだ。左の耳下の結び目と落下距離を含む死刑の執行方法はベリーの時代(1884年)から廃止まで変化がなかった。しかし、ベリーによるいくつかの処刑で、首の骨折、脱臼あるいは意識の消失も起こらず、‘強烈で不必要な苦痛が何分もの間’起こっているのを目撃したJ.J.ド・ズーシェ・マーシャルによると、ベリーは頭部離断や絞首の失敗を含む大失敗を少なくとも3回は経験していた[16]。多くの死の原因が剖検により窒息に帰せられ、個々の処刑での出来事、特に失敗したと伝えられる1923年のエデイス・トンプソンの処刑について多くの疑問が投げかけられた。そのような出来事に関わった絞首刑執行人は絞首刑の迅速さを賞揚された上に、‘軽微な事故’はあり得るものだとの言葉をかけられたが、こうして‘政府の幹部は絞首刑執行人の体面を保ってやった。そうしないわけにはいかなかったからである’[17]。これにもかかわらず、1949年に死刑に関する英国審議会の証言で、アルバート・ピエールポイントは全て瞬間的な死であったと主張したが、彼は、結び目を正しい位置に置き、落下距離を決めるのには多大な経験が必要で――数インチの問題があっという間の死とゆっくりとした絞殺の分かれ道であるとも述べた。もし、瞬間的な死を起こすのに失敗する場面を目撃したことがないのであれば、彼はどうやって落下距離の際どい性質を知ったのだろうと想像することは興味深い。さらに、常に成功を収めたというこの主張からすると、当時多くの刑死者の剖検を行った有名なバーナード・スピルスバーグ卿が、絞首刑を研究して、その効果や死の迅速性を高めるために落下距離の適正化をあえて示唆したことは驚くべきことである。

つまり、上記の期間(その後も何らかの改良が起こったと推定する理由はない)の絞首刑による死が、必ずしも迅速ではなく、もし当時の目撃証言を信ずるのであれば、時として長引いて残虐であったという信頼するに足る証拠があることは明らかだ。

(中略)

結論として、これまで述べたように、‘ハングマンズ・フラクチャー’は現在の英国の絞首刑では従来言われてきたよりも例外的であり、首の脱臼の結果として起こる脊髄損傷によって死が起こることがおそらく一番多いであろう。骨折の頻度は落下の距離や絞首刑執行人(全員が酷似した処刑方法を用いた)によって違いはなかった。しかしながら、死をもたらす方法としてロングドロップを用いた絞首刑は疑いなく効果的であるにもかかわらず、失敗なく迅速に効果が出るという点に関しては根強い議論があり、‘ほぼ瞬間的’であるというような広く流布している死の描写には疑問を投げかける。このことは重大な含蓄がある:ほとんどの共同体は意見の一致を見るであろうが、いかなる死刑執行の方法もその内実において迅速かつ苦痛なしであるべきであり、したがってどんな方法の死刑であっても、その迅速性が、それを用いることが受け入れられるか否かに関しての中心的な論点である。万一、死刑を再導入する政府があるならば、絞首刑を適切な方法として採用することには真剣に疑問が呈されなければならない。

《引用終了》

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