- 2011-11-01 (火) 20:02
- 裁判資料
第1 憲法36条違反
1 わが国の絞首刑で受刑者の頭部が離断される可能性
「上告趣意書 第1点 第1 憲法36条違反」において、受刑者の頭部が離断され得るので、わが国の絞首刑は憲法36条に違反する残虐な刑罰であると論じた。本補充書で、わが国の例も含めて絞首刑による頭部離断例を追加し、これらが発生する背景事情についてわが国と諸外国の比較を行う。
(1)わが国の例
「わが国の絞首刑で頭部の離断が過去に発生したとの具体的な立証は」「弁護側には極めて困難である」と上告趣意書(10頁)で述べた。
しかし、その後、わが国の絞首刑において受刑者の頭部が部分的に離断されたことを報ずる新聞記事を発見した。その受刑者は小野澤おとわ(「とわ」と表記する新聞もある)という女性である。同人は1883年(明治16年)に東京市ヶ谷監獄署で絞首刑を執行された。以下にその状況を報じた新聞記事を引用する(ただし旧字体・歴史的仮名遣いを新字体・現代仮名遣いに改めるなどしている)。
まず、死刑執行の翌日にあたる1883年7月7日付〈読売新聞〉の記事である。同紙は受刑者の氏名を「小野澤おとわ」として、
大木司法卿の命令に依り昨日午前八時三十分市ヶ谷監獄署内の刑場にて死刑を執行せられし模様を聞くに…(中略)…浅草紙にて面部を覆い後手に縛りしまま刑場へ引出し、刑台(けいだい)にて梯(はしご)を上りて内に入り…(中略)…刑台の踏板を外すと均(ひと)しくおとわの体は首を縊(くく)りて一丈余(いちじょうよ)の高き処(ところ)よりズドンと釣り下りし処、同人の肥満にて身体(からだ)の重かりし故か釣り下る機会(はずみ)に首が半分ほど引き切れたれば血潮(ちしお)が四方(あたり)へ迸(ほとばし)り、五分間ほどにて全く絶命
と報じている。
また、同日付の〈東京絵入新聞〉は、受刑者の氏名を「小野澤とわ」として、同人に対する死刑の執行状況を以下のように報道している。
昨日午前第八時三十分市ヶ谷監獄署において死刑に処せられぬ。立会検事中川忠純君、書記市川重胤(しげたね)君、其他典獄の諸員立列(たちなら)ばれ、例(かた)の如くとわを呼出(よびいだ)して刑場に就しめられ、踏板を外し体を堕落(だらく)せしむるに当り、とわが肥満質(ふとりしし)にて重量(おもみ)のありし故にや、絞縄(しめなわ)がふかく咽喉(のんど)に喰込みしと見え鼻口咽喉(はなくちのんど)より鮮血迸(ほとば)しり、忽地(たちまち)にして死に就たるはいとあさましき姿なりし。稍(やや)あって死体を解下(ときおろ)されたれど絞縄のくい入りてとれざる故、刃物を以て切断し直に棺におさめられし
これらの記事からすると、明治6年太政官布告65号(以下「布告65号」と記すことがある)が出された後のわが国の絞首刑において、受刑者に頭部の離断(完全な切断に至らない)が発生した事実は間違いないと考えられる。
なお、後述するように布告65号の定める絞架は英国の絞首台に由来する。
また、明治時代において、許可を受けた者であれば死刑の執行に立ち会うことができた。当時有効であった旧刑法附則2条は、現行刑訴法477条2項と類似の内容であり、死刑の密行性を規定していた。しかし、その運用は柔軟であった。当時、新聞記者は死刑の執行を参観することが可能で、一般紙が死刑執行の模様を報道することもあった。この状況は、1908年(明治41年)10月に現行刑法が施行される直前、同年7月の民刑局長監獄局長通牒によって、「厳密取締相成候様」とされるまで続いた。上記の記事はこのような背景の下に掲載されたものである。
(2)外国の例〈その1〉──オーストラリア
オーストラリアは、かつてわが国と同様に英国由来の絞首刑を採用していた。オーストラリアにおいて執行された絞首刑で、受刑者の頭部が離断した事例を示す。いずれも新聞記事を和訳したものである。なお、同国は1967年2月に最後の絞首刑を執行した後、死刑制度そのものを廃止した。したがって、ここで提示する実例はそれ以前のものとなる。
トーマス・ムーアは1897年6月24日に同国のニューサウスウェールズ州ダボで絞首刑を執行された。翌25日付の〈ウエスト・オーストラリアン〉に以下のような記事が掲載された。
ムーアは絞首台へとしっかりと歩き、すばやくしっかりした足取りで落下する場所に向かって13階段を上った。ボルトが引かれたとき、胴体は踏板をすばやく通過したが、しかし、頭は胴体から完全にちぎれ、頭と胴体が絞首台の下の2箇所に離れて落ちた。胴体は血だまりに横たわり、頭はフードがとれた状態で顔を上向きにして転がっていた。
クイーンズランド州ブリスベーンで1905年7月17日に絞首刑を執行されたジェームズ・ウォートンについての記事が、同月19日付の〈オタゴ・ウィットネス〉に掲載されている。
何か言いたいことはあるかという質問に答えようと、ウォートンは悲痛な沈黙の後に目をあげて話す努力をしたが、喉が鳴る音しか聞こえなかった。せきをした後で彼はまた話そうとして、ほとんど聞き取れない声で言った。「私はやったことを全て謝ります。受け入れてくれる者に自分を委ねます。もし天国があるならば、私にも慈悲が示されますように。これで言いたいことは終わりです」。
後に続く光景は、恐ろしいものだった。ロープがぴんと張ったとき、吊された男の首に深い傷が現われ、ものすごい血の流れが服に激しく降り注いで彼の足元に血の海を作った。ロープが取り除かれた時、頭がほとんど胴体から切断されていたのが分かった。
1914年1月16日付の〈アドバタイザー〉は、「オジャーズの死刑執行 噂は真実 首が胴体から切断」との見出しで、チャールズ・オジャーズに対する絞首刑の状況について、以下のように報じている。なお、同人は、同月14日にウェスタンオーストラリア州フリマントルで絞首刑を執行された。
ほのめかされていたように、フリマントル刑務所で行われた昨日朝のチャールズ・オジャーズという男性の死刑執行は、最初に当局者が報告したほど首尾よく行われなかった。当局者だけが絞首刑に立ち会っていた。死刑執行を見届けた後、刑務所の所長は、すべてが順調に行われたと言った。しかしながら、その日のうちに、その男性の頭が胴体から切断されたという噂が広まった。明らかに当局者はその問題をもみ消すことを切望したが、噂は公式に認められた。刑務所の所長によって昨晩になされた発表によると、オジャーズは口の中に起爆装置を入れて自殺しようとした時に受けた傷のため、通常よりも短い落下距離になった。通常の条件では、彼は6フィート(訳注 約183センチメートル)の落下距離になるが、4フィート6インチ(訳注 約137センチメートル)と決定された。首が切断されて、これでさえ長過ぎたことが後になって分かった。これは州でこれまで使われたうちで最も短い落下距離だと言われている。これよりも短い落下は、同人が絞殺によってゆっくりとした死を遂げる危険があり得るため、推奨されなかったのだろう。
なお、オジャーズの死刑執行につき、同記事には刑務所の監査官が1月15日になってからオジャーズの頭部離断に関する報道が正確であると認めた旨も記載されている。
(3)外国の例〈その2〉──英国
英国の絞首刑において受刑者の頭部が離断された例を示す。わが国の絞首刑は英国に起源を持つ。その意味で同国の絞首刑で受刑者の頭部離断が少なからず発生していることは重大である。英国は1964年12月に最後の絞首刑を執行した後、死刑制度を廃止した。頭部離断の実例はそれ以前のものとなる。
まず、英国の医学雑誌〈ランセット〉(1885年4月11日号 657~658頁)に掲載されたR.J.キンケード医師の論文を引用する。受刑者の氏名は明記されていないが、1883年1月にダブリンのゴールウェイの国立刑務所で発生した事故である。
私が立会った次の死刑執行は、1883年1月に行われたものだった。囚人は、何とか絞首台までは歩いていったが、絞首台の上で気絶したようだった。ボルトが引かれたまさにその時、彼は左向きになって横に倒れた。ロープのループは彼の膝の位置より下にあったので、その落下は明らかにあまりに長すぎた。首の右側で皮膚のおよそ1と1/4インチ(訳注 約3.2センチメートル)から2インチ(訳注 約5.1センチメートル)を残して全ての組織が完全に離断されていたので、死因となる損傷を大雑把に確認するだけで検死の必要はなかった。事実、皮膚のその小部分がなければ、彼は完全に頭部を離断されていたであろう。この結果は、過剰に長い落下、細い首、そしてその男性の気絶によって回転運動が生じ、その結果、体の落下による牽引力が首の長軸の方向に作用せず、側方に部分的に働いたことに起因すると私は考える。
次にシーン・マッコンヴィル著「イングリッシュ・ローカル・プリズン 1860~1900」(「English Local Prison 1860-1900」〈Séan McConville, Routeledge, London and New York, 1995〉)の一部(416~417、424~426頁)から4件の頭部離断例とそれらに関する報道等を引用する。
1885年の11月、彼(訳注 ベリー)はノーリッジ城でのロバート・グッダルの処刑に失敗したが、その方法は彼の不適切さを何倍も証明するものだった。彼は必要な計算を自らの落下表に基づいて行った。次に「グッダルがあまり筋肉質には見えなかったので」約2フィート(訳注 約60センチメートル)落下距離を減らした。しかし、見直された落下距離でさえグッダルの肉体的な状態を考慮しておらず、彼は首を切断された。…(中略)… ベリーの技術は時間と経験により向上することはなく(それはむしろ、気後れのために低下したかもしれない)、しかも、ほぼ同一の事例が約30ヶ月後にオックスフォードでロバート・アプトンの処刑がひどく失敗したときに起こった。〈オックスフォード・タイムズ〉は詳細かつ明瞭だった:
死刑台での不幸な事件は郡の刑務所にかなりの混乱を引き起こした。死刑執行人のベリーの側が5フィート(訳注 約152センチメートル)の落下距離を優に7フィート(訳注 約213センチメートル)と誤って計算したために、アプトンの頭はほとんど切断されてしまった。その光景は、その場に立ち会った者にとって悲痛な衝撃であったが、このような乱暴な処刑の再発を防止するために何らかの規則が存在すべきなのは確実だった102。
…(中略)…
ベリーは自分の担当する囚人を見ないで、彼の体重だけに基づいて、翌朝に落下距離を計算し、死刑執行に備えた。そこで2つの落下表が対立した。カークデールの医官は死刑判決委員会(1888年)で証言し、同委員会と同様、長い落下に賛成しているジェームズ・バー医師だった。バーは自ら計算をして、絞首刑執行人にそれを強く主張した。頭部離断を恐れて、ベリーは自分の表を作っていた。60歳で、アルコール中毒ないし他の理由から健康を損なっている死刑囚の筋肉の状態を2人とも考慮していなかった。
論争とベリーの誤った判断の結果は、ドゥ=ケインと内務省の最悪の懸念が実現する形で、午後の多くの新聞の紙面を飾った。「今朝コンウェイ処刑。刑場の恐ろしい光景。処刑に失敗。囚人の首がほぼ切断された。ぞっとする詳細。全ての罪の告白。検死」139。同紙はその場にいた記者の説明に基づいて「ぞっとする詳細」を書き続けた。同紙はコンウェイの頭がどのように胴体からほぼ切断され、処刑台の穴へと血がほとばしる音がどのように聞こえたかを描写した。ひとたび何か悪いことが起こってしまったことが明らかになると、刑務所の幹部は死刑執行室を片付けようとした。このため、失敗したという非難に加えてそれを隠したという非難が加わった。「もし記者が立ち会ってなかったらこの失敗は決して公になっていなかったことは疑いない。役人は今でさえ何もかも上手くいったと主張している」140。これはリバプールで起こっていたのだが、例えば保安官が1868年の法律の下で与えられた権限を行使して新聞記者を皆排除するような他の場所であれば何が起こっていただろう。
…(中略)…コンウェイに対する死刑執行の前日に、ワンズワースにおいて、もう一つ明らかに失敗した(ロバート・ブラッドショーの)死刑執行があり、そこでは新聞記者が排除されたが、検死陪審の審理においてほぼ偶然に詳細が明らかになった。しかし〈ポスト〉はこれに対して警鐘を鳴らした。「ブラッドショーがコンウェイとほとんど同じやり方で部分的に首を切断する実験台にされたことは知られることはなかったかも知れない」144。
…(中略)…
コンウェイの死刑執行は6年半前のリーの事案と同様に全国紙の反応を生んだ145。もっと大きな騒ぎになったかもしれないが、議会は閉会中だった。国民は、立派で信頼するに足る役人と専門家によって調査が行われ、問題は正しく取扱われた──しかし、事故が実際よりも上手く隠されたというのがおそらく真実ではないかと確信していた。〈デイリー・クロニクル〉はこの方針を採った。
新聞記者が、絞首台の穴をのぞき込んだ時に、半分ちぎれた首から血が噴き出して流れているコンウェイの死体が吊られているのを見つけたが、それと同様の別の惨事が過去にあったのではないか。実のところ、あらゆる試みが起こったことを隠すためになされて、何が起こったのか検死陪審で一切言及されなかった。今や一部に対して公開され、全ての面で礼節を保った死刑処行の視察を行うことの利益が、興味本位の新聞記事の不利益を優に相殺することは明らかである。一人の新聞記者で十分だ。彼が恐ろしく忌まわしい失敗を暴くのは明らかだ146。
(4)外国の例〈その3〉──米国
米国は、1967年6月2日に死刑を執行した後、中断期間を経て1977年にその執行を再開した。しかし、この再開以降で絞首刑は3例のみである。以下に米国の絞首刑で頭部が離断された例を掲げる。いずれも英国由来の方式を採用している。しかし、絞首刑はもはや同国でほとんど行なわれない死刑の執行方法であるため、提示し得る事例は他国の例と同様に古い時代のものとなる。
エヴァ・デュガンは1930年2月21日にアリゾナ州フローレスの州刑務所において絞首刑を執行された。その状況を報道した同年3月30日付の〈タイム〉の記事を以下に引用する。
彼女は刑務所の中で運命を受け入れ明るく振る舞い、係員と親しくなり、自分の遺体を包む絹の白布を刺繍した。死刑執行の前夜には一晩中、友人とホイストに興じたが、真夜中にオイスターシチューを作るために中断した。夜明けに彼女は支えられることなく2人の看守に挟まれて歩いて去っていった。彼女は、記者をからかい、写真家にポーズをとり、刑務所長と握手し、看守とキスをして、しっかりとした足取りで絞首台の階段を上った。死は瞬間的だった。絞首索に引っ張られて彼女の首が引きちぎられたからである。
なお、この事故により、アリゾナ州は死刑の執行方法を絞首刑からガス殺刑に変更した。以下はその事実を述べた米国アリゾナ州矯正局ホームページの抄訳である。
死刑囚監房の囚人に対する絞首刑執行中の不幸な事故によって、1933年にアリゾナの死刑は見直されて絞首刑は廃止された。新しい指針は致死性ガスによって死刑囚を死に至らせることであった。現在、アリゾナ州法は1992年11月15日以降に死刑判決を受けた囚人に対して致死薬物注射を認めている。もし囚人がその日よりも前に死刑判決を受けていたら、同囚は致死性ガスか致死薬物注射を選択することができる。
1931年6月19日にウェストヴァージニア州で絞首刑を執行されたフランク・ハイヤーに関する同月20日付の〈レディング・イーグル〉の記事を引用する。
ポカホンタス郡で妻を殺した55歳のフランク・ハイヤーは、昨夜、当地の州刑務所で、罪を認め自分の破滅は酒のせいだと呪いつつ絞首刑に処せられた。彼は首が切り落とされた。
同人は最後の食事で特別な要望をしなかったウェストヴァージニア州では数少ない刑死者の一人だった。彼は刑務所のカルテットが歌う中で絞首台へしっかり歩いて自らの死へ静かに向かった。
1951年にワシントン州ワラワラの州立刑務所で絞首されたグラント・リオは部分的に頭部を離断された。同事案について言及した1981年4月16日付米国ワシントン州最高裁の「州対フランプトン判決」を引用する。
おそらくより衝撃的で胸が悪くなるような誤算が、1951年のグラント・リオの死刑執行において起こった。アルバート・レンボルトはワラワラの州刑務所の元職員だが、その死刑執行に立ち会った。彼の記憶によれば、ロープは余分に長く余っていたので、踏板が開いた時に、リオはひどく首を切られ、部分的に首が切断された。19分後にリオの死亡が宣告された。
(5)頭部離断の事例が古い理由
絞首刑における頭部離断につき、上告趣意書、資料(1~4)および本補充書において、わが国(1例)、米国(4例)、カナダ(2例)、イラク(2例)、オーストラリア(3例)、および英国(5例)、合計17例を提示した(米国と英国については調査し得た全例を示したわけではない。これらのうち、わが国とイラク以外は、受刑者の体重に応じて、その落下距離を決定するための表〈上告趣意書7頁で触れた。以下この種の対応を示した表を「落下表」と記す〉を採用していることが明らかになっている)。
提示し得た頭部離断の実例は大部分が古いものである。最近の例は入手が困難であった。これは第1に、絞首刑を採用する国や地域が大幅に減少したためである。そして第2に、絞首刑の執行状況を全く公開しない国や、そもそもわが国に情報が入ってこない国で絞首刑が執行されているためである。
例えば、2010年に出版された「DEATH SENTENCES AND EXECUTIONS 2009」(Amnesty International Publications)によると、2009年に絞首刑を執行した国は、イラン(少なくとも388人、石打ち刑を含む)、イラク(少なくとも120人)、スーダン(少なくとも9人)、シリア(少なくとも8人、銃殺刑を含む)、わが国(7人)、エジプト(少なくとも5人)、バングラディシュ(3人)、ボツワナ(1人)、シンガポール(同)、北朝鮮(実施のみ確認)およびマレーシア(同)の11カ国しかない。
また、G20(20カ国・地域首脳会合及び財務大臣・中央銀行総裁会議)参加国で、今世紀になって絞首刑を執行した国は、わが国以外にはインドだけである。それも2004年に1人の執行が報道・報告されているに過ぎない。
念のために付言すると、絞首刑による頭部離断に関する最近の事例が入手困難であることについて、絞首刑の執行技術に革新があった可能性も検討した。しかし、そのような事実を証明する証拠は存在せず、むしろ、19世紀後半から絞首刑を執行する方法は基本的な部分において変更されていないことが明らかとなっただけである。
(6)わが国と諸外国の比較
ア わが国における落下表の不採用と頭部離断の発生
手塚豊著「明治初期刑法史の研究」(慶応義塾大学法学研究会 1956年)の257~258頁によると、明治4年(1871年)、囚獄司権正・小原重哉が香港及びマレーに出張した際に、同地で実見した「西洋器械」の図面を持ち帰り、それに基づいて布告65号の絞架が制定された。この「西洋器械」とは英国のものであった。
ところで英国においてサミュエル・ホートン医師作成の落下表が採用されたのは1875年である(ジョン・J.ド=ズーシェ・マーシャル医師の論文による)。この落下表が諸外国で採用された。しかし、わが国は、それに先だって1873年(明治6年)に布告65号をもって、落下表なしに英国の落下式の絞首刑を採用したのである。少なくとも当時、受刑者の体重に基づいて落下距離を変えるという発想はなかった。以来、わが国の絞首刑の執行に関して、落下表の採用は明らかになっていない。
体重に応じて落下距離を定めている諸外国において、受刑者の頭部離断例が少なからず発生している事実に鑑みると、落下表の存在が明らかではないわが国において、頭部離断例が前掲の1例のみにとどまると考えるのは困難である。
イ 諸外国における落下表の採用と頭部離断の発生
上告趣意書7頁で、諸外国において落下表を用いても頭部を離断される受刑者が出ている理由について述べた。さらに別の理由を補足する。
上告趣意書7頁に引用した米軍の落下表によると、99.88キログラム以上の体重の受刑者は、一律に1.52メートルの落下距離となる。しかしながら、体重が重い程、絞首刑執行時に受刑者の首に負荷される力は大きくなる。その力を軽減する目的からすると、米国の落下表をその体重が99.88キログラムを大きく越える者に用いることは適切ではない。
また、英国の落下表(K.S.ザテルヌス博士らの論文中に引用がある)によると、体重が90.72キログラムを越える受刑者に対する落下距離は示されていない。
このように、落下表の中に体重の重い者に対する落下距離が適切に示されていないことも落下表を用いていた諸外国において頭部離断が発生した理由と考えられる。
つまり、わが国の絞首刑において、仮に落下表を公式に採用したとしても受刑者の頭部離断を完全に防止することは困難である。
(7)まとめ
以上、各国で絞首刑による頭部離断が少なからず発生していること、わが国は落下表なしに英国由来の絞首刑を導入した後で、受刑者の頭部離断が発生したこと、一方で諸外国は落下表を用いているのに絞首刑で受刑者の頭部が離断される例があり、その理由の1つとして体重の重い者に対して落下表が適切に使用できない可能性があること等を補足した。
わが国の絞首刑において、今後も頭部離断が発生する可能性があるのは益々明らかである。このようなわが国の絞首刑は憲法36条に違反する。
2 絞首刑におけるゆっくりとした窒息死の発生とその残虐性
上告趣意書13頁で述べた「数分ないしそれ以上の時間がかかって受刑者が窒息する事態」(以下「ゆっくりとした窒息死」と記す)の残虐性について補充する。
(1)頭部離断とゆっくりとした窒息死の関係
落下式の絞首刑において、頭部離断を防止することは、落下距離を短縮して首にかかる力を小さくすることにより可能である。しかし、それによって受刑者は数分もしくはそれ以上の時間をかけて窒息死する可能性が出てくる。これらのことは上告趣意書5頁で触れた「死刑に関する英国審議会(1949~1953)報告書」に記載されている。前掲の「イングリッシュ・ローカル・プリズン 1860~1900」(426~427頁)にも以下のような記載がある。なお、ヘンリー・ラボーチャー(1831~1912)は、英国の政治家であり傑出したジャーナリストでもあった。
死刑執行室の中で何かが間違った方向に進んでいた。3つの落下表が使われていた──1888年の委員会のもの、ジェームズ・バー医師のもの、死刑を執行する者なら誰もが使っていたものである。2つの異なる懸念がぶつかった。死刑執行人は窒息死よりも頭部離断を恐れ、より長い落下距離で迅速な死を好ましく思う科学者はその危険性が少ないとして頭部の離断を容認した148。ヘンリー・ラボーチャーが〈トゥルース〉149に記載した内容はその特徴的な見解を伝えている。
私は殺人者が絞殺されるのを見るくらいならむしろ首が切断されるのを見る方がましだ。しかしながら、仮にこの部類の犯罪者の首を取り除くのを望むのであれば、ベリー氏が実行しているような、ロープで胴体から首をねじり取る方法ではなくて、仕事を成し遂げるのにより科学的な方法が速やかに採用されれば良いと思う。……少なくとも、仮に嫌悪をもたらすことがより少ない死刑執行の方法が速やかに考案されなければ、我々は、個人的には非常に遺憾であるが、死刑に反対する長く強力な運動に直面せねばならないのは確実である150。
つまり、絞首刑はその落下距離を長くすれば頭部離断の危険性が高くなり、落下距離を短くすればゆっくりとした窒息死の危険性が高くなることが明らかである。
(2)絞架導入の経緯とゆっくりとした窒息死の残虐性
ところで前掲の手塚の著作(255~261頁)によると、明治3年新律綱領に定められた絞柱による「絞」刑は、
けや木の柱の前に受刑者を立たせ、その首に巻いた縄を柱の穴から背後に廻し、それに二十貫(弁護人注 75キログラム)の分銅を吊るし、足の下の踏板を外して刑の執行を終わる
方式であった。そしてその状況は、
臨刑ノ状ヲ聞クニ囚人空ニ懸ラレ命未タ絶セサル際腹肚起張血耳鼻ヨリ出テ其苦痛言フ可ラズ(明治5年10月鹿児島県伺)
という悲惨なものであった。さらに手塚の著作には以下の記述がある。
この絞柱の不備は、司法省も認め、明治5年8月、正院に次のような伺を提出している。(7)
新律綱領獄図中絞罪機械ノ儀ハ実用ニ於テ絶命ニ至ル迄ノ時間モ掛リ罪人ノ苦痛モ有之候ニ付今般西洋器械ヲ模倣シ別紙ノ通リ製造致シ候間従前ノ器械ハ被廃止候様仕度此段相伺候也
西洋器械というのは英国のものである。というのは、その前年に監獄視察のため、香港及びマレーに出張した囚獄司権正小原重成が、同地で実見した図解を持ち帰り、彼が改正意見を具申したためである。
…(中略)…
絞架が絞柱にくらべて、受刑者の苦痛をはるかにやわらげたことは想像にかたくない。おそらく西欧的水準に達した絞刑方法であったのであろう。されば司法省も同年(弁護人注 明治6年)八月の京都府への指令において「絞架ハ英国ノ刑具ヲ現ニ模造シ其絞柱ニ優ル所以ハ器械ノ施用極テ簡便、殊ニ罪人ノ断命速疾ニテ最モ苦痛少ナク実験上其効不少」と自負している。
このような経緯からすれば、布告65号による絞架の制定は、もっぱら受刑者の「断命速疾」を目的に行われたことがわかる。落下距離を減少させて頭部離断を防ぐことは可能であるが、反面ゆっくりとした窒息死によって受刑者が死亡する可能性が高くなる。これはわが国が布告65号によって絞架を導入した趣旨から外れることになる。そればかりか、頭部離断とは異なるゆっくりとした窒息死という新たな残虐性の問題が生じ得る。上記に引用した絞柱による「絞」刑の状況がゆっくりとした窒息死である。絞柱であっても、布告65号による絞架であっても、それらを使用した死刑執行で発生するゆっくりとした窒息死それ自体は医学的に同じである。このような事態を起こし得る絞首刑は憲法36条が禁止する残虐な刑罰に他ならない。
(3)まとめ
以上より、絞首刑において頭部離断の危険性を減らすために落下距離を短くすると、ゆっくりとした窒息死が起こり得ること、ゆっくりとした窒息死は、わが国が絞架を導入した経緯からも、その内容からしても残虐であることを補足した。このような事態を引き起こすので絞首刑は憲法36条に違反する。
3 絞首刑の残虐性と密行性
上告趣意書(8~9頁)ですでに述べたが、現在の絞首刑の執行の状況は全く開示されない。しかしながら、絞首刑には頭部離断やゆっくりとした窒息死などといった事故の危険性があることからすると、我が国における死刑の密行性は、その意図がいかなるものであっても、結果的に絞首刑の残虐性を隠蔽していると言わざるを得ない。前掲「イングリッシュ・ローカル・プリズン 1860~1900」(428~429頁)を以下に記す。
絞首刑はずっと不確実な殺人の方法であった156。…(中略)… 絞首刑をより誤りの少ない方法に変更する試みは、いずれも論争になり得たが、政府には意味のない程度の政治的な実現可能性しかなかった。そして絞首刑を維持せねばならなかったので、比較的高い頻度で、定期的に事故が起こる機会がそのままになった。承認された設備、手順、そして死刑執行人を法により制定して事故をできる限り少なくした後、新聞記者が死刑執行に触れるのを調整することで可能な限りスキャンダルの機会を減らせば良かった。…(中略)…死刑執行室はすでに刑務所がそうなっていたように──社会の中の秘密の場所となった。
同書428頁の脚注156によると、上記引用の「絞首刑はずっと不確実な殺人の方法であった」との文言は、当時の英国内相ヘンリー・マテューズの英国下院における発言に基づく。同内相は、ロバート・アプトンの頭部離断に関して以下のように述べた。
「これらの嘆かわしい事故を無くす方法を示唆することは不可能だ」と述べて、「私は事故が頻繁でなくて良かったと思っている」と付け加えた(「国会議事録3」CCCXXIX巻 33段 1888年7月20日)。
これらの記述からしても、わが国の死刑の密行性は、結果的に絞首刑の残虐性を隠蔽していると言わざるを得ない。絞首刑が残虐であるが故に、その執行が秘密裏に行われているのではないかという懸念は増すばかりである。
4 小括
以上、わが国の絞首刑は、受刑者の頭部離断やゆっくりとした窒息死を起こし得るので、憲法36条が規定する残虐な刑罰である。この点について補足した。
第2 憲法31条違反
「上告趣意書 第1点 第2 1」(13頁)において、わが国の死刑で受刑者の頭部離断が起こり得ることを前提として、そのような死刑の執行方法は絞首刑とは言えないから憲法31条に違反する旨を述べた。この論述の後段部分について補足する。
わが国は明治3年に新律綱領において絞と斬を規定した。この絞首刑と斬首刑の併存は明治15年の旧刑法施行まで続いた。その後はわが国の刑法が規定する死刑の執行方法は絞首のみとなり、これは明治41年施行の現行刑法でも維持されている。
旧刑法の編纂の過程で死刑の執行方法から斬首を廃し絞首のみに限定するにあたって、以下のような討論が刑法草案会議においてなされている。「日本刑法草案会議筆記 第Ⅰ分冊」(早稲田大学図書館資料叢刊1 1976年)の77~78頁より引用する。なお、同会議委員鶴田皓の発言を「鶴」、政府顧問のボアソナード博士の発言を「ボ」と表記し、適宜、句読点を補うなどの変更をした。
ボ「欧州各国ニ於テハ、死刑ノ内ニ絞首ト斬首ト二ツノ法アリ。現今、英国ニテハ絞首ノ法ヲ用ヒ、仏国ニテハ斬首ノ法ヲ用ユ。此二ツノ方法トモ各一得一失アルモノナリ。絞首ニ処スルハ、天然ノ身体ヲ具備シ置クヲ以テ、斬首ノ身首処ヲ異ニスルニ勝レリト為スノ主意ナリ。又、斬首ニ処スルハ、其犯人ノ一身ニ取リ速ニ生ヲ断チ其苦痛ヲ覚エサルヲ以テ、絞首ノ苦痛ヲ覚ユル如キモノニ勝レリト為スノ主意ナリ。然シ其真ニ苦痛ヲ覚ユルト否トハ受刑ノ本人アラサレハ他人知リ得ヘキコトニアラス。又、死屍ヲ親属へ下付スルコトニ付テモ、身体ヲ具備シ置ケハ、其親属ニテ其死屍ヲ見タリトモ、別ニ惨酷ノ刑ヲ受ケタリトノ怨ヲ生スルコト薄キノ便利アラントス」
鶴「然リ。此条第一稿ニハ死刑ヲ斬首ト為シタレトモ、元老院ニテモ絞罪ニ処スルヲ可トスルノ議論アリト聞ケリ。殊ニ日本ニテ現今専ラ絞罪ヲ用フルコトナレハ矢張之ヲ絞罪ニ改メントス」
このようにわが国が斬首を廃し絞首のみを刑法大系に取り入れた理由は、絞首が「天然ノ身体ヲ具備シ置クヲ以テ、斬首ノ身首処ヲ異ニスルニ勝レリト為スノ主意」であったことが明らかである。
すでに上告趣意書(14頁)で述べたとおり、新律綱領と布告65号で規定された絞、旧刑法下の絞首、ならびに現行刑法下の絞首は同一の死刑執行方法である。わが国がその刑法大系の中に絞首を取り入れ、斬首を廃した経緯からしても、受刑者の頭部離断が起こればそれは現行刑法11条などの定める絞首ではない。
受刑者の頭部離断が発生し得る死刑は、憲法31条に違反することについて補足した。
第3 結論
以上、わが国の死刑が憲法31条、36条に違反するとの「上告趣意書 第1点」の内容を補足した。原判決は刑事訴訟法410条1項により破棄されるべきである。