- 2011-11-01 (火) 23:00
- 裁判資料
第1点 原判決には憲法違反ないし憲法解釈の誤りがある
原判決は、死刑が生命権の尊重を定めた憲法13条、適正手続によらなければ生命を奪われることがない旨を定めた同31条、及び残虐な刑罰を禁止した同36条に違反しないとした一審判決を追認した(原判決82頁)。しかし、死刑は憲法31条、同36条に違反し、その適用も憲法に違反する刑事手続としてそれ自体が違憲であるから、原判決は刑事訴訟法410条1項により破棄されるべきである。
第1 憲法36条違反
1 わが国の死刑は受刑者の頭部を離断(断頭)する残虐な刑になりうるので憲法36条に違反する
(1)絞首刑は受刑者の頭部を離断する可能性がある
ア 絞首刑の基本的方法
現在、絞首刑は、それを採用している国や軍隊などの多くで、死刑を執行される者の頸部に上方から下げた絞縄をかけて、その者を落下させ、絞縄で空中に吊り下げる方法(以下「落下式の絞首刑」もしくは単に「絞首刑」と記す)によって行われる(以下「死刑を執行される者」「頸部」「絞縄」をそれぞれ「受刑者」「首」「ロープ」と記す場合がある)。この方法は、19世紀後半に各国で採用が始まって以来、基本的な点で大きな変更もなく、現在も用いられている。わが国も明治6年以来、現在に至るまで落下式の絞首刑を採用している。
イ 頭部離断の存在と実例
ところで、上記の方式で死刑を執行すると、落下直後に受刑者の頭部が完全に離断されたり、完全ではなくともそれに近い状態まで離断される場合がある。世界各国でその例が報告されている。わが国と同じ落下式の絞首刑を過去に採用していたかもしくは現在採用している国での実例をいくつかあげる。
1942年5月1日、米国カリフォルニア州のサン・クエンティン刑務所でロバート・ジェームズことメージャー・リゼンバーが死刑を執行された。当時、同刑務所長であったクリントン・ダフィはその著作に次のように記している(クリントン・T・ダフィ「死刑囚」〈サンケイ出版、1978年〉原題「88MEN AND 2WOMEN」)。
「この死刑に関するあなたの感想を発表してください」
一人の記者が聞いた。
「わたしは、カリフォルニア中の人が、みな処刑の光景を見たらよかったと思う。リゼンバーの顔から、ロープのために肉がもぎ取られ、半ばちぎれた首や、飛び出した眼や、垂れ下がった舌を、みんなが見たらよかったと思う。宙ぶらりんに揺れ動く彼の脚を見たり、彼の小便や脱糞や、汗や固まった血の臭いを、みんなが嗅いだらよかったと思う」
だれかがあえぎ、一人の記者がつぶやいた。
「所長、そんなことは活字に出来ませんよ」
「出来ないのは分かっている。しかし出来たら、みんなのためになる。州民たちに、彼らの指令がいかに遂行されたか正確に知るのに役立つ。かつて死刑に票を投じた陪審員全部、かつて宣告を下した裁判官全部、私たち皆に、この苦しい試練を通り抜けることを余儀なくさせる法律の通過を助けた立法者全部は、今日、わたしと一緒にいるべきだった」
私は、前にいる蒼白な顔の円陣をぐるりと見回した。さらに前へ乗り出して言った。
「諸君、これがわたしの感想だ。これはわたしの生涯で最も恐ろしい経験であったし、二度と繰り返さないようにと神に祈るだけだ。あとは何も言うことはない」(14~15頁)
1962年12月11日カナダ・トロントのドン刑務所でのアーサー・ルーカスの例を「最後の死者 ロナルド・ターピン、アーサー・ルーカス、そしてカナダの死刑廃止」(ROBERT J.HOSHOWSKY「THE LAST TO DIE RONALD TURPIN, ARTHUR LUCAS, AND THE END OF CAPITAL PUNISHMENT IN CANADA」DUNDURN 2007年)から和訳して、引用する。なお、アーサー・ルーカスと同時にロナルド・ターピンも絞首刑を執行されている。
「何か言いたいことがあるか」と絞首刑執行人が聞いた。「ない」というのが2人の答えだった。それからエヴァリットは、自分が過去10カ月以上にわたって助けてきた2人に対して、別れのあいさつを告げた。「天国で会おう」教誨師は2人の頭に黒いフードがさっとかけられた時に言った。絞首刑執行人がフードで覆われた2人の頭と首にロープをかけたときに、ルーカスは静かにすすり泣いて、エヴァリットは詩篇23を朗読し始めた。……(中略)……
絞首刑執行人が仕掛けをばねで動かして彼らが死に向かって落下していくと同時に、処刑台の床が、部屋中に反響する耳をつんざくばかりのすさまじい音を出して、彼らの足の下に落ちた。絞首刑に立ち会った者は誰もその夜にあった事を長年にわたって明らかにしなかった。当時の新聞は何もかも書いたわけではなかった。「絞首刑は不手際だった。ターピンはきれいに死んだが、ルーカスの頭はすぐに引きちぎられてしまった。ルーカスの頭は首の腱だけでぶら下がっていた。床中に血が広がっていた。絞首刑執行人がルーカスの体重の計算を間違えたんだ。何という死に方だろう」95エヴァリットは何年も後、彼が亡くなる直前に発表されたインタビューの中で述べた。……(中略)……
「誰もが、血しぶき、文字通り水道管が破裂したような恐ろしい出血にあっけにとられていた。壁には血が吹きつけられていた」その寒々とした12月の夜にターピンとルーカス2人の絞首刑に立ち会ったトロント警察の殺人課の刑事ジム・クローフォードは述べた。(178~181頁)
2007年1月15日イラク・バグダッドでのサダム・フセインの異父弟バルザン・イブラヒム・アル=ティクリティの例をニューヨークタイムズ紙の記者ジョン・バーンズの報告から引用する。イラク政府は、ティクリティの頭部を故意に離断したのではないことを示すために、その死刑執行のビデオを限定して公開した。バーンズ記者はイラク政府からこのビデオを見せられたジャーナリストのうちの一人で、以下は米国CNNのインターネットサイト上で放映されていた同人へのインタビューの一部を和訳したものである(なお、下記には訳出していないが、バーンズ記者によると、ティクリティの体重は約170から175ポンド(77.1~79.4キログラム)である)。
まず最初に、このビデオテープは、1回だけ上映すると言われました。携帯用カメラで撮影したサダム・フセインの絞首刑の模様が流出した騒ぎの後、イラク政府は、この失敗した絞首刑が、インターネットに流出して、特に中東全域で、何度も再生されることがないよう固く決心しました。
3分間のビデオは、……残酷で……、どの死刑執行でもそうでしょうが……おびえた2人……ひどくおびえた2人が、グァンタナモ収容所のスタイルのオレンジ色のつなぎを着て、踏板の近くに立っていました。黒いフードを頭にかぶせられて……2人は……ムファムジハーダ(訳注:明確に聞き取れず意味不明)……死を前にした祈り……唯一の神の他に神はなし……を唱えていました。そして、落ちました。
フセイン氏の下で秘密警察の長官であり、その異父弟でもあるバルザン・イブラヒム・アル=ティクリティ氏は、決められた通りに8フィート(2.44メートル 弁護人注)……それだけ落下した時……彼の頭はあっという間にちぎれてしまいました。……カメラはそれから……前に進んで絞首台の下の穴の中をのぞき込みます……そこで彼がうつぶせになっていたのですが……頭がなくて……首のあたりに血だまり、彼の頭は黒いフードの中にあるままで、彼の後ろの……穴の中にありました。……何が起きたかというと、イラクの役人が、今回は一生懸命に努力して、上手くいっていたのですが、落下表と絞首刑執行人が呼ぶ箇所で失敗したようでした。この中肉中背の男性は落とされた距離が長すぎて落下速度が大きくなりすぎたのです。
ウ 頭部離断が起こる理由
このような現象が起こる原理は以下のとおりである。
受刑者は落下式の絞首刑でロープが伸び切るまで落ちると、首にかかったロープで宙吊りとなる。受刑者の落下は突然止まるが、その衝撃はロープがかかっている首に集中する(詳しく言うと、首には上下方向に引っ張る力が瞬間的にかかる)。首にかかる力は、体重が重いほど、あるいは落下する勢いが強い(落下速度が速い)ほど大きくなることは明らかである。このうち落下する勢いは、落下距離が長いほど大きくなる。つまり、体重が重く落下距離が長いほど受刑者の首にかかる力は大きくなる。この力が弱ければ首には致命的な損傷が起こらず、受刑者は、数分もしくはそれ以上の時間をかけて窒息死することとなる。首への衝撃がある程度強ければ、受刑者は頭部が離断されることはないものの、その体内において頸椎の骨折、脊髄の切断、及び首の動脈の損傷など(後述、ラブル博士らの論文中の「内的な頭部離断」)が起こり死亡することとなる。首にかかる力が首全体が耐えうる許容範囲を超えた場合に、いわば引きちぎられて頭部が離断されるのである。
上記したことに関して、例えば、「死刑に関する英国審議会(1949~1953)報告書」(HER MAJESTY’S STATIONERY OFFICE「ROYAL COMMISSION ON Capital Punishment 1949-1953 REPORT」 1953年)に以下のような記載がある(247頁、段落703)。
他にも不都合な出来事があった。ときおり、過度に短い落下距離を与えられた者はゆっくり絞殺されて死亡し、また過度に長い落下距離を与えられた者は頭部が切り落とされた。
エ 頭部離断に関する科学的研究
同様の原理で、高所からの飛び降りを伴う縊頸自殺(以下「首つり自殺」と記す場合がある)でも自殺者の頭部が離断される場合がある。
例えば、オーストリアのインスブルック大学のヴァルテル・ラブル医学博士らの論文「Erhängen mit Dekapitation Kasuistik – Biomechanik(頭部離断を伴った縊死 事例報告、生体力学)」(〈犯罪学雑誌〉195巻31~37頁1995年)には、自験例及び文献から以下のような事例が挙げられている。
体重 | 紐の長さ | 完全離断か否か | 紐 |
85kg | 3m | 不完全 | 牛皮13mm |
不明 | 不明 | 完全 | 鋼線5 mm |
不明 | 2.5m | 不完全 | ペルロンの紐7 mm |
76kg | 3.5m | 完全 | 合成繊維の紐10 mm |
不明 | 4m | 不完全 | ペルロンの紐12 mm |
78kg | 5m | 完全 | 鋼線太さ不明 |
80kg | 2.4m | 完全 | 合成繊維の紐10 mm |
63kg | 10m | 完全 | 平らな紐15 mm |
73kg | 3.8m | 不完全 | 牽引ロープ20 mm |
90kg | 3.8m | 完全 | 合成繊維の紐12 mm |
(「ペルロン」は化学繊維の一種 弁護人注)
上記論文にラブル博士らは以下のように記載している。
頸部器官断裂や脊椎の損傷は、縊頸自殺では稀である。頭部離断に至っては極めて珍しい。比較的旧い文献には、絞首刑時の頭部離断に関する事例が言及されている(キンケード 1885、ザテルヌスら 1978〈より広い文献を紹介している〉、レイら 1994)。それに加えて絞首刑に関するいくつかの文献の中に頸部の皮膚が筒状に残存している状態で、しかも頸部器官が離断されている所見の報告が見られる。それについて「内的な頭部離断」とも呼ぶことができる。
同博士らはこの論文を以下の如く要約している。
長さ380センチメートル、太さ12ミリメートルの合成繊維の紐を頸に巻き飛び下りた52才男性の自殺を報告した。本例は完全な頭部離断に至った。生体工学的実験から、頸が、通常、長軸方向の牽引に耐える力の限界は12000ニュートン付近であると判明した。そのような力が作用すれば、紐の太さにかかわらず、頭部離断が起こる。必要な落下距離は体重次第であるが、等力曲線としてグラフに表現される。
つまり、このような研究によれば、物体としての人間の首にどの程度の力がかかれば頭部離断が発生するかまで判明している。逆に言うと、絞首刑や首つり自殺で首に十分な大きな力がかかれば、ロープや紐の太さにかかわらず、頭部は物理学的な法則に従って離断されるのである。
オ まとめ
以上のとおり、諸外国の実例及び科学的研究によって、絞首刑は、死刑を執行される者の頭部が離断されうる死刑の執行方法であることがわかる。
(2) わが国の絞首刑は受刑者の頭部が離断される可能性を排除できない
ア 諸外国での絞首刑
まず諸外国の実情をもとに絞首刑一般について論ずる。
絞首刑を採用している各国、地域及び軍隊などは、同刑によって受刑者の頭部離断がおこり得ることを前提に、執行方法を調整してそれを防止しようと努めている。具体的には、受刑者の体重に応じて落下距離を決定し、頸部にかかる力の制限を試みる等の例が見られる。
例えば1959年当時に絞首刑を採用していた米陸軍の「軍の死刑執行に関する手順」(Department of the Army「Procedure for Millitary Execution」1959年)によれば、受刑者の体重と落下距離の対応は以下のとおりである(この種の表は以下に提示する米陸軍由来のもののほか英国由来のものが各国で用いられているが、内容的に大差はない)。
54.48kg以下 | 2.46m | 77.18kg | 1.83m |
56.75 | 2.39 | 79.45 | 1.80 |
59.02 | 2.31 | 81.72 | 1.75 |
61.29 | 2.24 | 83.99 | 1.70 |
63.56 | 2.16 | 86.26 | 1.68 |
65.83 | 2.06 | 88.53 | 1.65 |
68.1 | 2.01 | 90.80 | 1.63 |
70.37 | 1.98 | 93.07 | 1.57 |
72.64 | 1.93 | 95.34 | 1.55 |
74.91 | 1.88 | 99.88以上 | 1.52 |
(訳注:原典はポンド・インチで表記されているものをキログラム・メートルに修正した。)
しかし、このような規定が存在しても、頭部を離断される受刑者が出ている。
その理由の一つは、米陸軍が適切としている落下距離の範囲が2.46メートルから1.52メートルであるのに対して、先に挙げたイラクのティクリティ死刑囚や首つり自殺での頭部の離断が2.4ないし2.5メートルの落下距離で起こっていることから容易に推察できる。つまり、米陸軍が適切としている落下距離の範囲と頭部が離断される落下距離の範囲が重なっていることが原因である。別の言い方をすると、体重の軽い者には適切とされる落下距離であっても体重の重い者がその距離を落下すると頭部が離断される場合があるからである。この事実からすれば、その頻度は別にして、絞首刑が受刑者の頭部離断をもたらす可能性は排除できない。
理論的に考察しても、絞首刑の対象は、生きた人間であるから、その受刑者の頭部が離断するか否かを事前に実験することは不可能である。個体差のある個々の受刑者全てについて同人の頭部が絶対に離断されず、しかも同人をすみやかに死に至らしめるような執行条件を合理的な根拠の下に決定し、その執行条件を全ての死刑執行について漏れなく反映することは、不可能か少なくとも著しく困難であろう。それゆえに、死刑を執行する側も意図していない、受刑者の頭部の離断が発生しているのである。
以上から、絞首刑は受刑者の頭部を離断する可能性を排除できないことは明らかである。
イ わが国における死刑の執行の実情と法律
一方、わが国は、死刑の執行についての情報をほとんど公開していない。死刑の執行を第三者が実見するのは現状では不可能である。遺体を引き取る者のない場合も少なからずあると考えられることからも、死刑の執行を受けた者の遺体を第三者が確認することさえ困難が伴う。
現在、死刑の執行そのものでなくとも、刑場の視察さえ不可能に近い。2004年10月7日の日弁連第47回人権擁護大会シンポジウム第3分科会の基調報告書には、以下のような記載がある(148頁)。
1 刑場視察の申し入れ
日弁連は、2003年8月27日、法務大臣に対し、死刑場視察の申入れをし、日弁連による東京拘置所内の視察を許可するよう求めるとともに、全国の弁護士会から各地拘置所内の死刑場の視察の要求があったときはこれを許可するよう善処を申し入れた。これを受け、2003年から2004年にかけて、複数の弁護士会及び弁護士会連合会から、法務大臣、拘置所長ないし拘置支所長に対し、死刑場視察の申入れがなされ、所属弁護士に対し拘置所内の死刑場の視察を許可するよう求めた。これらの申入れは、国民が、死刑の存廃を含む死刑制度のあり方を検討し、執行が適正な手続で行われているか検証するため、また、弁護士が、弁護士法第1条に基づき法律制度たる現行死刑制度の改善に努力すべき義務を果たすため、最も基礎的な情報である死刑場の施設等について視察することが必要不可欠であること等を理由とするものであった。
ところが、法務省矯正局長及び各拘置所長は、「申入れのあった死刑場視察の件については、応じかねますので、あしからずご了承願います。」などとして、すべての申入れを拒否した。
法務当局は、刑務所や拘置所の施設中、刑場のみは特別の場所であって、公開についても特別に扱うとの考えであることがうかがわれるが*1、その法的根拠は疑わしい。
*1 たとえば、1997年5月13日、死刑廃止を推進する議員連盟の8人の国会議員が松浦功法務大臣に申入れをした際、あわせて刑場視察についても申入れたが、立ち会った刑事局長は、見られて困るというわけではなく、また、国政調査権による調査の申入れということであれば検討しなければならないが、伝統的に刑場視察は拒否している、拘置所建替え問題に関連して、現在の東京拘置所の庁舎を是非視察していただきたいが、刑場は別問題である旨述べたという。
しかも、「第2 憲法31条違反」で述べるとおり、わが国の死刑関連の法律には、受刑者の首にかかる力を頭部の離断が発生しない程度にまで減じることを目的とした規定が、少なくとも法律の明文上存在しない(仮に規定を持ったとしても、それがどの程度、受刑者の頭部の離断を防ぎ得るかはまた別の問題である)。
同趣旨の命令や通達の存否も明らかではない。なお、後述する昭和36年7月19日大法廷判決(刑集15-7-1106)について栗田正最高裁調査官が執筆した「死刑(絞首刑)の宣告は憲法31条に違反するか」と題する論文(ジュリスト232号50頁<時の判例>)には以下のような記載が存在する。
結局布告65号が絞首刑の執行方法に関する根拠法規と考えられており、その他には特別の命令、通達等何もない由である(法務省刑事局及び矯正局に対する照会の回答)。
この論文からすれば、少なくとも上記の大法廷判決当時には、死刑の執行方法に関する命令や通達が存在しなかったと考えられる。その後命令や通達が新たに発せられた事実が明らかにされたこともない。
ウ わが国における死刑による受刑者の頭部離断の可能性
このような状況にあるので、現在も有効であるとされる明治6年太政官布告65号が実施された以降に受刑者の頭部の離断例が存在するか否かの検証は不可能である。検証ができないことと相まって、わが国における絞首刑の執行は、頭部の離断を防ぐための規定なしに一体どのような方法でその発生を防いでいるのか、重大な疑問がある。更に、わが国と同様の絞首方法を採用している諸外国と同様にわが国でも絞首刑の際に頭部の離断が発生しているのではないかとの疑念は解消されない。わが国だけがそのような事態から無縁でありうる、法的、科学的な根拠が希薄であるからである。
なお、念のために補足すると、刑訴法第477条2項は、死刑執行にあたっての検察官の必要的立ち会いを定めている。しかし、受刑者の頭部の離断は、前記のとおり、自然科学的な現象として発生するのであるから、単に慎重に執行するとか、検察官が立ち会うなどで防止できる性質の事象ではない。
以上のとおり、わが国の死刑は諸外国と同様に死刑を執行される者の頭部が離断される可能性を排除できないと言わざるを得ない。
なお、わが国の絞首刑で頭部の離断が過去に発生したとの具体的な立証は、前述のような死刑の密行性を考えれば弁護側には極めて困難である。刑場でさえ前述のとおり立入不可能である。その上、執行にあたっての命令や通達さえも開示されていないばかりか、存在するか否かさえ不明である。そのため、専門家の鑑定等によって頭部離断の危険性について研究し、議論することも難しい。
従って、弁護人はわが国での死刑執行による頭部離断の具体例を提示することはできないが、翻ってみると、そもそも、受刑者の頭部離断が争点となっている状況では、受刑者の頭部離断が発生することの立証責任が弁護側にない。上記死刑の密行性にも鑑みると、検察官が絞首刑の執行によって受刑者の頭部離断が起こらないと主張するのであれば、その立証責任が検察官にあることは疑問の余地がない。仮に明治6年以来、受刑者の頭部離断が発生した事実はなく、発生する可能性がない合理的・科学的な根拠があるのであれば、検察側がその立証責任を果たすべきなのである。
また、本上告趣意書で取り上げた例以外にも絞首刑や首つり自殺において頭部が離断した例は存在する。それらについては後日補充するが、これらの例は、原因不明で突発的に起こった事故ではない。落下によって首に加わった力が大きかったために発生した、いわば落下式の絞首刑の本質的な部分にかかわる現象である。つまり弁護人がこれらの例を提示する意味合いは、「頭部が離断されうる」という漫然とした可能性があるという趣旨ではなく、対策がなければ頭部離断が原理的に発生する可能性があるという趣旨である。死刑は究極の刑罰であり、仮に失敗して頭部が離断しても、その執行のやり直しは不可能である。
更に、今ここで問題としているのは、これまで死刑の残虐性として指摘されてきたこととは異なる。死刑を執行される者一人一人の頭部が離断されるか否かという極めて明白で外形的な現象である。
そこで以下、わが国の絞首刑は受刑者の頭部を離断する可能性があるという前提に立って論を進めることとする。
2 判例とその解釈
(1) 昭和23年3月12日大法廷判決
昭和23年3月12日大法廷判決(刑集2-3-191、以下「判例1」と記す)は、死刑それ自体は憲法36条に違反しないとしたうえで、
死刑といえども、他の刑罰の場合におけると同様に、その執行方法等がその時代と環境とにおいて、人道性の見地から一般に残虐性を有するものと認められる場合には、勿論これを残虐な刑罰といわねばならぬ
と判示している。
現代のわが国は、斬首刑が行われていた江戸時代や明治時代の初期ではない。頭部の離断を目的とした死刑ではないのに、受刑者の頭部が離断されうる死刑は、現代という「時代と環境において」は残虐である。
なお、判例1は残虐な死刑の執行方法として幾つかのものをあげている。そのうちの一つである「さらし首」は、受刑した本人が感ずる苦痛に由来する残虐性とは直接かかわりがなく、遺体の棄損の状況を見聞きした者が抱く残虐受感を基準としているものと考えられる。従って、絞首刑において、受刑者の頭部が離断されることを、さらし首と全く同様に考えることはできないかもしれない。しかし、受刑者の頭部を離断するのは、死に至らしめるという死刑の目的を超えてその遺体を不必要に棄損することであり、さらし首と共通の残虐性をもっている。すくなくとも、現代において、頭部が離断したことを見聞きした者が残虐だとの印象を抱くことは間違いない。
前述のとおり、絞首刑の執行によって受刑者の頭部が離断される可能性がある。その可能性がある以上、わが国の死刑は正に上記判例の述べる残虐な死刑の執行方法である。
(2) 昭和30年4月6日大法廷判決
昭和30年4月6日の大法廷判決(刑集9-4-663、以下「判例2」とする)は、
現在各国において採用している死刑執行方法は、絞殺、斬殺、銃殺、電気殺、瓦斯殺等であるが、これらの比較考量において一長一短の批判があるけれども、現在わが国が採用している絞首方法が他の方法に比して特に人道上残虐であるとする理由は認められない。
と判示している。
しかし、本判例は死刑を執行される者の頭部が離断されうることを考慮に入れているとは考え難い。そもそも関係する法律では、受刑者の頭部離断が起こり得ることなど想定されていないことは明らかである。法律が想定していない事態にまで同判例が踏み込んで考慮しているとするには無理がある。
同判例に関する弁護側上告趣意書の中にも受刑者の頭部が離断されうる旨の主張はみられない。同判例の原判決である高裁判決中では絞首刑が憲法36条に違反するか否かの判断すら行われていない。
このようなことからして、本判例は法律の想定どおり頭部の離断なしに絞首刑の執行が行われることを前提として述べていると考えられる。つまりわが国の絞首方法で頭部離断がおこりうることについて、同判例は判断の対象にしていない。
(3) 判例2の前提が変化している
ア 電気殺の状況
前記判例2があげる各国の死刑執行方法のうち、電気殺は20世紀初頭に米国で広く採用された方法である。1979年12月31日の時点でも、当時、米国で死刑を存置していた37州のうち18州が電気殺を唯一の死刑執行方法として採用していた。しかし、「受刑者の体が燃える」などの事態が生じることが明らかとなり、致死薬物注射の採用とも相まって徐々にその採用が見送られてきた。そもそも電気殺は唯一、米国のみで行われていたが、2005年末の段階で米国で電気殺を採用している州のうちネブラスカ州以外の州では、死刑囚自らが電気殺か致死薬物注射を選択可能であった。ネブラスカ州では、電気殺しか死刑の執行方法を定めておらず、死刑囚は全て電気殺で死刑を執行されていた。このような州はネブラスカ州が最後であった。そして、2008年2月に米ネブラスカ州最高裁は、電気殺が同州憲法の禁ずる「残虐で異常な刑罰にあたる」との判断を示した。
このネブラスカ州最高裁判決を最後に、米国では死刑囚が選択しない限りは、電気殺による死刑執行は行われていない。すなわち、死刑の執行方法としての電気殺は、死刑囚自らが希望しない限りは、世界中で行われなくなる可能性が高い。
判例2は電気殺との比較で、わが国の絞首方法が残虐であるか否かを論じているのであるから、同判例は、現時点においてはその前提の少なくとも一部において妥当性を欠く。
イ 致死薬物注射の採用
判例2の当時には実施されていなかった致死薬物注射による死刑の執行が1977年に米国で導入され、1982年に初めて実施された。その後、米国以外の国でも致死薬物注射による死刑執行が行われている。米国の例をあげると、致死薬物注射は、2005年12月31日の時点で、死刑を存置する38州のうち、上記ネブラスカ州を除く37州で唯一もしくは選択可能な死刑の執行方法として認められ、米国における死刑執行のほとんどが致死薬物注射により行われるに至っている。
(4) 判例の見直しの必要性
判例2は、現在広く行われている致死薬物注射との比較でわが国の絞首方法が残虐であるか否かを論じていないから、現時点においてはやはりその前提の少なくとも一部において妥当性を欠く。
そもそも判例1は残虐性の概念は時代とともに変わる旨を判示し、判例2は半世紀以上も前に各国の死刑執行方法とわが国のそれを比較したものである。判例2が時間の経過とともに判例1と齟齬をきたすのは必然である。判例2があげている各国の死刑執行方法は、同判例が出されてから半世紀以上経った現在、その種類や実施状況が変化している。したがって判例2は少なくとも現在見直されるべきである。
3 小括
本趣意書では受刑者の頭部離断が起こりうるという事実に焦点をあてて、死刑が残虐な刑罰であることを明らかにした。しかし、死刑の残虐性はこれにつきるものではない。
絞首刑において、原審までに言及したように、数分ないしそれ以上の時間がかかって受刑者が窒息する事態もあり得る。このような事例は海外で報告されていて、その残虐性が指摘されている。この点から見ても絞首刑は憲法36条の禁ずる残虐な刑罰である。また、原審までに述べたように、頸椎の骨折等によって受刑者が短時間で絶命するにしても、その態様を考えればやはり憲法36条の禁ずる残虐な刑罰と言わねばならない。
まして、本趣意書で明らかにしたように、わが国の死刑は受刑者の頭部を離断する可能性があるから憲法36条に違反することは明かである。
第2 憲法31条違反
1 わが国の死刑は、受刑者の頭部を離断する死刑になりうるから、憲法31条に違反する
憲法31条は「何人も法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない」と定めている。
また、刑法11条1項は「死刑は、刑事施設内において、絞首して執行する」と規定している。
現行の絞首刑の執行方法が憲法31条に違反しないとした昭和36年7月19日大法廷判決(刑集15-7-1106、以下「判例3」と記す)は、明治6年太政官布告65号(絞罪器械図式 以下「太政官布告65号」あるいは「布告65号」と記すことがある)が現在も、
法律と同一の効力を有するものとして有効に存続している
としている。
同布告は、明治6年当時実施されていた死刑執行方法のうち「絞」についての執行方法の詳細を定めたものである。当時の死刑については、新律綱領(明治3年)に規定されている。
同綱領には、
死刑二
絞
斬
凡絞ハ。其首ヲ絞リ。其命ヲ畢ルニ止メ。猶ホ其體ヲ全クス。遺骸ハ。親族
請フ者アレハ下付ス。凡斬ハ。其首ヲ斬ル。遺骸ハ。親族請フ者アレハ下付ス。
とある。
布告65号は現在から約140年前の新律綱領の「絞」刑の執行方法を定めたものである。ところが上記判例によれば、同布告は、新律綱領が廃止されたと考えられる旧刑法の施行後は、旧刑法12条の定める死刑の執行方法を規定するものとして有効であり続けたうえ、旧刑法が廃止された後は、現行刑法11条の定める死刑(絞首刑)の執行方法を規定するものとして現在も有効であるというのである。
従って、判例3は新律綱領の「絞」刑と現行の絞首刑は同一であるとの前提に立っていることとなる。すなわち、判例3を前提とする限り、新律綱領が廃止された現在であっても、現行の絞首刑は、新律綱領の定める「絞」刑の規定どおり「基體ヲ全クス」る内容でなければならない。逆に言えば現行の絞首刑において死刑の執行を受けた者の頭部が離断されうるのであれば、「基體ヲ全クス」ることにならないから、現行の絞首刑は布告65号や現行刑法11条の定める死刑執行の方法とは異なることになる。
常識的に言って死刑の執行を受ける者の頭部が離断される死刑は断頭刑と言い得るであろう。あるいは、断頭刑とまで言わないにしても、頭部が離断するような死刑の執行方法について、経験則からも適正手続の保証の面からも、絞首ないし絞首刑と呼ぶことはできないのは明白である。仮に、首にロープをかけて受刑者を落下させれば、それは形式上、絞首ないし絞首刑であるとの立場を取るとしても、前記の検討からして、受刑者の頭部が離断される死刑は、少なくとも刑法11条で定めている絞首ではない。受刑者の頭部の離断は、前述のように落下式の絞首刑の本質にかかわる事象であり、原因不明の突発的な事故ではない。よって全受刑者の頭部が離断されるわけではないにしても、その可能性が存在し、死刑は失敗したさいに再度適正に執行するなどということが不可能な刑罰であることを考えれば、現行の死刑は受刑者の頭部が離断する死刑になりうることで憲法31条に違反する。
2 わが国の死刑は関係する法律に法律事項であるべき内容が記載されてないので憲法31条に反する
また、判例3は太政官布告65号について
同布告は、死刑の執行方法に関し重要な事項(例えば「凡絞刑ヲ行フニハ……・両手ヲ背ニ縛シ……面を掩ヒ……絞架に登セ踏板上ニ立シメ……絞縄ヲ首領ニ施シ……踏板忽チ開落シテ囚身……空ニ懸ル」等)を定めており、このような事項は、死刑の執行方法の基本的事項であって、…(中略)…新憲法下においても、同布告に定められたような死刑の執行方法に関する基本的事項は、法律事項に該当するものというべきであって(憲法三一条)、検察官はその答弁書において、右布告の内容は法律事項ではなく、死刑執行者の執行上の準則を定めたものに過ぎないから、現行法制から見れば法務省令をもって規定しうるものであるというが、当裁判所は、かかる見解には賛成できない。将来、右布告の中その基本的事項に関する部分を改廃する場合には、当然法律をもってなすべきものである。
と判示し、更に
現在の死刑の執行方法が所論のように右太政官布告の規定どおりに行われていない点があるとしても、それは右布告で規定した死刑の執行方法の基本的事項に反しているものとは認められず、この一事をもって憲法三一条に違反するものとはいえない。
と判示している。
すでに述べたとおり、死刑を執行される者の頭部が離断されるのであれば、それは布告65号を含む現行の法律等の定める絞あるいは絞首ではない。仮に、そのような事態を防止する規定が存在するとすれば、その規定は、その死刑が絞首刑か否か、少なくとも刑法11条の定める絞首か否かを決定する要因である。それは判例3の述べる「死刑の執行方法の基本的事項」、つまり法律事項であることは明らかである。したがって、受刑者の頭部を離断することなく絞首刑の執行ができることを明らかにする規定が法律事項として法律に明文化されるべきである。しかし、このような法律はない。
以上のとおり、死刑に関する現行法は、その刑が刑法11条の規定する絞首か否かを決定する、言い換えれば死刑に関して罪刑法定主義の根幹をなす規定を欠いており、憲法31条に違反する。
3 わが国の死刑は、不適切な手続が法律に記載されているので、憲法31条に違反する
前記布告65号は図面ないし数値を用いて刑場や刑具の寸法及びその使用方法等を定めている。例えば絞繩の繩長を「二丈五尺」とし、「機車ノ柄ヲ挽ケハ踏板忽チ開落シテ囚身地ヲ離ル凡一尺」とするなどの規定がそれである。
仮に布告65号の内容をそのまま現在の刑事施設に読みかえて死刑を執行した場合、以下のような事態が生じる。
例えば、東京拘置所の刑場の踏板から下の階の床までの高さが4メートル程度あるとされている。その床から「一尺」すなわち約30センチメートルの位置まで受刑者を落下させると、受刑者は約3.7メートル落下することとなる。前述したバルザン・イブラヒム・アル=ティクリティ死刑囚の例では、同人の約170か175ポンド(77.1ないし79.4キログラム)の体重、8フィート(2.44メートル)の落下距離で、同人の頭部の離断が発生している。バルザン・イブラヒム・アル=ティクリティ死刑囚の体重は特別に重くはない。受刑者の体重が重く、落下距離が長い程、首にかかる力は大きくなる傾向にあるから、この例からすると、明治6年太政官布告65号に従って現在の刑事施設で絞首刑を執行した場合、死刑を執行される者の頭部が離断する一定の蓋然性があると考えられる。
以上より、布告65号を含む死刑関連の現行法は、その執行によって、刑法11条の規定する絞首とは異なった死刑執行となる可能性のある規定を含んでいる。このような事態をひきおこす執行方法を定めるわが国の死刑は憲法31条に違反する。
4 小括
そもそも、明治6年太政官布告65号は、明治6年司法省布達21号によって明治5年監獄則の付録監獄図式の中に編入され、それ自体の効力は失われ、布告65号で改定された絞架図式は監獄図式の中に存在することになった。その後明治14年9月監獄則が新法と交代し新しい監獄則が施行された。新監獄則では絞架図式を含む一切の監獄図式が削除された。絞架図式の成文法的裏付はこのときに消滅した。その後も改正律例所定の「絞架」の規定はなお生きていたが、改正律例が明治15年1月の旧刑法の施行により失効したことにより、「絞架」という名称の裏付けも成文法から消えたのである。したがって、わが国の死刑には死刑の執行方法の規定が存在しないから憲法31条に違反する。仮に判例に従って布告65号が今なお有効であると見るにしても、本項で述べたとおりの理由でわが国の死刑は憲法31条に反する。
第3 結論
わが国の死刑が憲法31条、36条に違反することは明らかであり、原判決は刑事訴訟法410条1項により破棄されるべきである。